未来を信じること

 東北での被害を知り、胸がふさがるような思いでこの3日間を過ごした。ふとしたときに僕の脳裏には、テレビでいくどとなく放映された映像−圧倒的な力で街を完全に破壊し尽くす津波の姿が繰り返しよぎってしまう。そして、僕のこころの深い部分では怯えと悲しみの感情が、重なりながら沈殿しているのを常に感じてしまう。
 二十年以上前の三月下旬、僕はローカル線にのって、まだ雪の残る三陸の街を訪ね歩いたことがある。さびしい一人旅だったけれど、出会った人たちは僕に優しくしてくれた。その暖かさは今も忘れられない。しかし、そうした記憶の中に存在する風景も、あの人たちの笑顔も、ほとんどが失われたのだと思うと、どうにも耐え難いほどのやるせなさと悲しみに襲われてしまう。せめてあの人たちのためにできることはないか、と思うけれど、遠い地にいる僕にできることは、ほとんど何もない。
 ただ僕が唯一できること。それは、被災地にも、いつかはかならず新しい未来がうまれ、そこに希望が育つはずだと信じることだ。僕は阪神大震災のとき、医療スタッフとして被災地にはいった経験がある。悲惨な状況をまえにして絶望的な思いになったとき、災害心理の専門家の次の言葉に、僕は確かに支えられた。

 災害は大いなる悲劇をもたらし、心に深い傷を刻みますが、同時にまた被災社会に新たな力が生まれたり、個人と家族が災害から立ち直って、さらに生き続けるための勇気と活力を発揮することによって、より良き未来への展望が拓ける場合が多いことも事実です。(ビヴァリー・ラファエル著『災害の襲うとき』p3、みすず書房、1989年)

 いま被災地では、多くの人がきっと絶望的な思いで過ごしているのだろうけれど、そうした絶望的な状況の中からでも、いつかは必ず希望がうまれ、より良き未来がうまれるはずだ。被災者を直接的に、間接的に支える全ての人が、そう信じることがもっとも大切なことなのだ。もちろんこうした考えは、悲惨な現実を前にしては、あまりにも現実離れした楽観的すぎる考えであるかもしれない。それでも僕は、人間のもつそのような力を信じることを誰もが少しずつでも積み重ねていけば、それはかならず被災地のひとたちにとっての大きな支えになり、励ましになるはずだ。僕はそう信じる。