多和田葉子『言葉と歩く日記』より

 今月21日に発売された、多和田葉子言葉と歩く日記 』(岩波新書、2013)を読む。文ひとつひとつが立っていて、独特の魅力があるので、ついついと読み進めてしまう。魅力があるというのは、たとえばこんな一節。

 日本語にはトルコ語と似たところがある、ということを当時、時々耳にした。構造が似ているので、ウラル・アルタイ語族というものに両者とも属している、と考えていた言語学者も過去にはいたそうだ。一体どんなところが似ていると思われたのか訊いてみると、冠詞がないこと、名詞に文法的性がないこと、前置詞がなくて後置詞(助詞)があることなどだ、と言われたが、わたしは当時この主張をとても不合理に感じた。インド・ヨーロッパ語族を中心とした言語の見方に神経質になり始めた時期だったからだと思う。インド・ヨーロッパ語族を中心と違う者はみんな同じ穴の狢だ、と言われたようで腹がたった。これでは、鍋が自分中心に世界を見て、「ミシンとコウモリ傘は似ている」と主張するようなものではないか。鍋から見れば、ミシンとコウモリ傘にはいろいろ共通点がある。まず蓋がないこと、そして仕事中熱くならないこと、更には調理の役に立たないこと、など。これは鍋の理屈に過ぎないのではないか。世界の言語には冠詞のない言語の方が冠詞のある言語よりずっと多いに違いない。文法的性だって、ない方が普通だと思う。マイノリティであるインド・ヨーロッパ語族が自分を世界の中心だと思っているのではないか。(p159)

 僕もまた、「日本語とハンガリー語が近いから、ハンガリー的な治療態度が日本に受け入れられやすい」などと簡単にいったりするけれど、そういう視点そのものがインド・ヨーロッパ語族を中心とみる思考習慣に影響を受けているのかもしれない。
 ただ、そうした多和田の指摘そのものも面白いけれど、鍋とミシンとコウモリ傘の比喩が何より楽しい。ミシンとコウモリ傘が互いを比べあっている姿が目に浮かぶから、厳しい批判だけれど、主張が嫌みにならず、すっと胸に入ってくる。力が抜けていて、それでいて巧妙な文体がとにかく魅力的だ。
 しかし鍋もこんなところに突然引き出されて、どうも落ち着かない思いをしてるんじゃないかなあ。

言葉と歩く日記 (岩波新書)
言葉と歩く日記 (岩波新書)多和田 葉子

岩波書店 2013-12-21
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