S.L.Harris G.Platzner著『Classical Mythology -Images and Insights- 5th edition』


 神話が無数の人間の精神活動の産物だとすれば、それを単に空想譚とみなして話の展開を受身的に楽しむだけではもったいない。そこに人間心理のあらゆる側面を観察し自分とのつながりを見出すといった積極的参与を試みることもまた神話の楽しみの一つだろう。
 世界各地の神話の中でも、西洋の人々の生活や思考に巨大な影響を与えたギリシャローマ神話は、そのスケールと造形力、さらに登場する人物の魅力において圧倒的であり、われわれ日本の臨床家にとっても基礎的教養として理解を深めておくべき主題であろう。しかし日本で刊行されているギリシャ神話の本はその刊行数はかなりにのぼるとはいえ、神話そのものの紹介に徹しているものが多く、長い年月にわたる多くの研究の集積である「神話学」全体の紹介を初心者にもわかりやすく行っている本はあまり見つからない。西洋の神話が多くの思想家、心理療法家にインスピレーションを与えてきた歴史を鑑みればこうした出版状況が、これからの日本の心理療法の発展をもたらしうる知的土壌をいくばくかは痩せたものにしてしまっているのではないだろうか。一般に「エディプス」「エレクトラ」といったキャラクターはその名を冠した概念とともによく言及されることがあるが、中井久夫氏の散文を例外とすれば、われわれ臨床家がギリシャ神話を素材に用いて論文を書く機会が乏しいことに、一抹の寂しさを覚える。

Classical Mythology: Images and Insights
Classical Mythology: Images and InsightsStephen L. Harris

2007-06-04
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 今回取り上げる本は、英語圏では定評のあるギリシャローマ神話の神話学に関するテキストだ。今年ついに第5版が刊行されたこの大部のテキストは、初心者にとっては一見複雑に見える神話とその研究の全体像を把握するのに最適の一冊となっている。
 本書の全体は以下のような構成になっている。まずギリシャ・ローマの歴史の概説が行われ、そして神話学の研究方法について説明がなされる。次にオリュンポス十二神をはじめとした神話のキャラクターの説明の後、歴史的順序に添って、まずヘシオドス、ホメロスらの叙事詩、そしてソフォクレスアイスキュロスエウリピデスらの悲劇の概説とともに代表的なテキストが抄出される。その後主題はローマ神話に移り、ローマ建国神話の概説のあと、ヴェルギリウスの『アエネーイス』、オウィディウスの『変身譚』の紹介が行われる。
 いずれの章もわかりやすく、また過不足のない説明に徹しており、テキストとしての完成度は高い。また日本人にとってありがたいことに、平易な英語で説明されていることもあって、とても読みやすい。神話の精神分析的、ユング心理学的理解にも説明が割かれており、心理臨床、精神医療に携わるものにとって、ギリシャ、ローマの神話に親しむための最適の一冊と言えよう。