中野麻美著「労働ダンピング」

 本業で忙しく、ずいぶん久しぶりの更新となった。
 今回は、この本のレビューを行う。


 診療で出会う患者さんには、低賃金、低収入による生活上の苦しみに喘いでいる人が多いこともあり、ワーキングプアの問題について考えさせられることがしばしばある。そこでアマゾンの書評で好意的な意見の多かったこの本を選んで読んでみた。しかし期待が大きかった分、正直がっかりした本だった。

 著者は、企業の人件費の低減の努力に伴って生じている労働者の賃金の著しい低下を「労働ダンピング」と呼ぶ。そして非正規雇用者を中心にして労働者がいかに厳しい条件下で働いているか、豊富な実例を交えながら説明し、その上でそうした状況を改善するためにどうすればよいのか、著者なりの制度的な提案を行った本である。
 現在の日本の労働者が置かれている厳しい現状を知る上では格好の本であるとはいえる。しかし全体としては、厳しい評価をつけざるをえない。というのは、なぜこうした状況が発生してきたのか、そして今後どうしていけばよいのか、という点についての著者の議論が日本国内のことにばかり目がいっており、全体的、世界的な視点を欠いているからだ。それゆえ著者の主張が説得力に欠けるものになってしまっている。
 また主張を支える基礎的論考を欠いていることも、この本の弱点となっている。たとえば、著者は「労働ダンピング」の原因を「グローバル化」、「新自由主義」に求めているが、それらの言葉がいったい何をさしているのか、そしてそれらのどういう要素を批判しているのか、それが明らかでない。またそれに変わるものとして、著者はどういう社会体制が望ましいと考えているのか、という全体的視点も提示されていない。
 また日本国内の労働市場において「公正」さが失われていると著者は主張するが、中国の労働者が日本の労働者と同じ仕事をして1〜2割の賃金しかもらっていないことは、公正なのか。もし賃金の平準化を図ることが公正だとすれば、日本の労働者の賃金が一定下がっていくことは世界的に見ればより全体的な公正な社会への流れとは言えないか。
 これは極論めいた疑問ではあるが、著者が「賃金」「公正」「公平」といった概念などに関する基礎的論考を提示していないため、現状批判に際してうかがわれる著者の迫力が、現状改革の提言の説得力へと転化しえていない。たしかに具体的な政策面での提案を行ってはいるのだが、それはあくまで対症療法にしか過ぎないものとしかみえず、そうした施策の長期的な有効性を確保する基盤となるマクロな経済政策と関連づけることができていないため、著者の提案は「理想」的なものだが、画餅にしか過ぎない提案とみなさざるをえない。
 
 労働市場における悲惨な状況の問題点を一冊の本にまとめた努力は買えるが、その基礎的論考を欠いているため、現状の告発という意義しか持ち得ていない点が残念であった。