竹田青嗣著『言語的思考へ』
最近「意味」について考えているが、できるだけ原理的に考えようと、竹田青嗣著『言語的思考へ- 脱構築と現象学』を再読している。
竹田氏は意味を次のように説明する。
つまり、「意味」とは、言語記号に内属する対象指示性でもなく、個々人の内的思念、「起源としての思念」のことでもない。むしろ、自分の思念(感覚、感情等々)が表現にもたらされるとき、そのつど、「表現」(=語、言表、文)との関係において、われわれにとって問題となるところのものだ、とさしあたり言えるだろう。(p141)
竹田氏は、分析哲学の意味論は形式論理的思考に陥っており、内実を欠いたむなしいものだと否定的に評価する。その上で、フッサールの主張を読み解きつつ、次のように意味を説明する。
・・・われわれがなにかを思ったり感じたりするそのときに、「起源的思念」として「意味」が脳裏に生じているというのではない。そこにはただ、何らかの「直観」、もしくはその「表象」のようなものがあると言えるだけである。だが、われわれがその思いや感じを何らかのかたちで「表現」(内言、独語、発語等)したり「理解」したりするそのたびに「意味」という現象が現われる。(p142)
つまり、意味は心の中にアプリオリに存在しているのではない。その人の心の内容が表現され、それが他者に理解されることによって、はじめてそこに意味が生起する。そういうことだ。
我々は時に、生きる意味を見失った人に対して心理的援助を行わなくてはならないことがある。そんな人に対しては、フランクルのように「生きる意味があなたにあるのだ」と説得するのでなく、まずは生きる意味を見失ったことに伴う不安や苦しみを理解しようとすることからはじめなくてはならないが、その理論的根拠の一つはここにあるように思う。
言語的思考へ- 脱構築と現象学 | |
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