ビジネス・エシックスの教科書を読んでみた(2)

ビジネス・エシックスの教科書のサマリーをもう少し続ける。
今回は2章の「汚れた手」。

2 汚れた手
 マキャベリ君主論で、悪い人間にかこまれる中で一人だけ「良い人間」でいようとすると、最後には破滅が待っていると述べた。誰しも良い人間でありたいと思い、あるいはそう人に見てもらいたいと思っているものだろうが、社会の中では「良い人間」ではやっていけない時もあるだろう。
 実際Albert CarrやMilton Friedmanは、「ビジネスはゲームのようなものだ。その中で受け入れられたルールの範囲であれば、何をしても倫理的に非難されるいわれはない」という由のことをいった。彼らにとってのビジネスの目的とは、敵に勝利することであり、利益を生むことにある。そうした視点からのビジネスは、ゼロサムゲームであり、一人の勝者しかいないゲームだということになる。
 この見解には問題があるだろう。そもそも彼らは、ビジネスは生身の人間の活動であることに注意を払っていない。ビジネスは単なるディールの物理的蓄積でなく、人間関係を基盤にして成立しているものだ。

 それでも、Carrの言い分は完全に間違っているのだろうか。マキャベリのいうように君主−経営者−は時に「汚れた手」を用いなくてはならないのではないか。
 
 たとえば、あるすぐれた経営手腕を持ったシリアル製造会社の社長をつとめる男性がいた。それがある大きなタバコ会社に買収され、子会社化された。その後もその子会社の社長をつとめていたが、親会社から業績低迷するタバコ部門の長へと異動を命じられた。それは彼の手腕を買っての判断であったが、しかし彼はタバコを吸わない人で、その仕事をすることについて倫理的に葛藤することとなった。個人としては多くの人の健康を害する仕事はしたくない。しかしタバコ部門長としては、タバコ事業の業績回復に対する株主や社員の願いを考えれば、彼らの期待に応えるべきだろう。ではどうすればいいのか?彼は個人としての倫理と、ビジネスマンとしての倫理の間の葛藤をどう克服すればよいのだろうか。

 逆に、いくら企業が「倫理的」に行動しているようにみえても、それが打算的な判断の上で行われることがある。たとえばマーケットは、非倫理的な企業を罰するであろうという理由で、あるいは非倫理的な活動はいずれ政府が制限するだろう、という理由で「倫理的」行動をとっている場合もある。しかしこれらは本当は利己的な理由からの行動である。ある行為が倫理的だというからには、それが企業にとってマイナスの影響が出ようとも行わなくてはならないものである。

 そこでこう考えよう。ビジネスはprofessionだと。professionalismという概念には、卓越した能力、技術と知識、コミュニティへの貢献、そして社会からの信頼といった含意がある。利益ばかりを追求して社会のことを顧慮しないビジネスは、professionとは言えない。professionとは、倫理というものがその中核に据えられるべき営みだ。

 自分の利益ばかり追求して、多くのステークホルダー、ひいては社会にとっての不利益ということを十分顧慮していないビジネスがある。日本でもいくつかの私募ファンドが子会社のREITに高値で物件を売りつけていたり、MSCBを乱発するような企業もある。このテキストに従えば、彼らは「金儲けの『プロ』」ではあるが、professionとは言えないわけだ。なるほど。