サブプライムローン問題と精神分析の復権の可能性

 米国のサブプライムローン問題に発した金融不安が日増しに大きくなってきている。現在のところマスコミの報道では「株価の下落」といった表面的な事象だけが報道されることが多く、その問題の深刻さに対して多くの国民の注目は集まっていないようだ。
 米国の消費は、長期にわたってあおりたてられ続けられてきた。ローンを組んで住宅を買い、その住宅を担保にしてまた別の消費行動に移る。そして信用力の低い人でも住宅を買わせようと、新たな金融商品を開発し、それが証券化されていく。そうして本来なら小さくて金も借りられないほどの信用が、金融の力で膨張させられ、本来の信用力以上に膨らんでしまった消費者は未来のものまでも先取りして購入し、消費はどんどん拡大していった。
 バブル経済の崩壊を経験した日本人にとっては、いつかこうした循環は破綻することが当然のことのように思える。崩壊が起こるか起こらないか、という問題ではなく、もはやいつ起こるか、という問題のように思えて仕方がない。

 もちろんそうならないことを願いたいし、悲観的に考えすぎているのかもしれない。今回の金融不安を受けて、各国の中央銀行は市場の流動性を付与するために資金供給を行うなど市場の安定化にむけた対応を積極的に行っており、そうした介入が効を奏する可能性も高いだろう。しかしそれらが十分に機能せずに最悪の道をたどり、信用収縮がさらに進んで米国発のリセッションが起こったならば、それは米国の人たちの心理にも影響を与えずにはおかないだろう。
 もちろんこれは米国の問題である。しかし日本で心理療法に携わる者としても、広い視点をもって理解を進めておくことが、われわれの臨床を振り返る際にもきっと役立つだろう。そういう意味で、米国の近未来を予測した上で、その予測した未来が訪れた時、米国の心理療法界でどういう変化が起こるか、ということを今の時点で意識しておくことはあながち意味のないことでもないだろう。

 今回のサブプライム問題の深刻さは、米国のこれまでの消費拡大による経済発展という成長モデルが限界に近づいてきていることを露呈しつつある点にある。もし今回のクレジットマーケットの崩壊を分水嶺として、これから米国の消費が落ち込んでいくことにつながるならば、それはこれまで消費をひたすら楽しんできていた米国民から、その喜びを剥ぎとってしまうことになるだろう。物を買う喜び。所有の喜び。自己顕示の喜び。こういった消費にまつわるつかの間の喜びで満たされていた生活が、困難になってしまうおそれがあるということだ。そうした消費にまつわる喜びによって生きていくことの意味の多くが与えられていたならば、その喜びがはぎ取られた時、彼らは生きる意味の多くを見失うことになってしまう。そして人は自問するだろう。なぜ自分は仕事をしているのか。何を求めて生きてきたのか、と。

 こうした未来予測を踏まえて、心理療法の課題を考えてみよう。これまで長期にわたる米国の経済発展の中では、社会にどうやって適応するか、が主たる治療的課題となっていた。治療者もまた、いかに効率的に患者の状態を改善し社会適応に導けるか、という点に力点をおいて治療に取り組んできた。そうした社会だったからこそ、認知療法、行動療法を代表とする、比較的治療の焦点がはっきりしていて、治療効果を判定しやすい治療法が大きく発展し、逆に精神分析のような焦点のはっきりしない治療は衰退することになったといえよう。
 しかしリセッションの中で多くの人が生きる意味をいったん見失うことになれば、そこに精神分析復権する可能性があるのではないだろうか。「症状改善」「環境への適応」を求めてではなく、意味を見失ったために生じる心理的困難を解決したいと思って受診する人が増える。その見失われた「意味」の領域というものは、「症状」、「適応」という概念とはまた別の水準に位置するものである。認知療法などの治療では「意味」を見出すことの援助はそもそも目指していない。
 もちろんリセッションにおいても認知療法の有用性が低くなるというわけではないが、「意味」を発見することが重要な課題になるのであれば、精神分析−対人間の情緒的交流を通じて、自分の存在の意味を言葉で確認していこうとする治療−に再び脚光があたる可能性が高いのではないだろうか。(ここでいう精神分析とはもちろん「週5回」「カウチ」といった形式的側面によって輪郭づけられるものではない。そうした治療は、リセッションの最中であれば、ごく一握りの富裕層だけが受けられるものでしかないだろう)そしてそうした変化は、長い目で見れば米国における心理療法により広がりと厚みを与えるものとなるように思う。

 もちろん、以上の論考が杞憂に終わる、すなわちリセッションが回避されるなら、それに越したことはないのだが。