大庭健、井上達夫、川本隆史他編『現代倫理学事典』

 なんだかしっかりした記事を書こうとすると推敲に時間がかかってしまって、ああでもないこうでもないと書き直しているうちにページの更新をしないままに日が過ぎてしまった。当初の目的としてはもう少し気楽に発想メモや備忘録として活用しようというアイデアだったが、はじめてみるとつい肩に力が入ってしまっている。まだブログというメディアに慣れていないことに気がつく。

 そしてまたケースメントの著作についてのレビューが書きかけのままになっている。できるだけしっかりまとめてその上で自分の意見を書こうとして、結局短い論文をまとめるような作業になってしまった。いつの間にか気楽に書くという当初の目論見からずいぶん外れていることに気がついた。

 そこで一旦それらは棚上げにして、試みに今までに読んだ本から気まぐれに選んで短いレビューを書いてみよう。

 前々から倫理学の事典が欲しいと思っていた。医療に携わる中で、あるいは心理療法を行う中で倫理的問題に直面することがしばしばあり、そうした際に問題解決のいとぐちとして応用倫理学の本を読んだりもしてきた。しかし倫理的議論を行う際には語の定義というものが重要になる。そこで、依拠できるだけの信頼性のある事典が欲しいと常々思っていたというわけだ。しかし倫理学の主要項目は哲学事典の中で扱われることが一般的で、倫理学だけに特化した事典が過去なかった。それに哲学から見れば継子扱いされているのか、哲学事典の中の倫理学に関する記載はずいぶんと少ないもので、それが多いに不満であった。
 そんな折2006年11月に弘文堂からこの本が刊行されることを知り、そして編集委員井上達夫氏と川本隆史氏が入っていることを知ってうれしくなり、衝動的に購入した。購入後半年以上たつが、臨床で倫理的問題に直面したときなど折に触れ手にとって読んでいる。なかなか良い事典である。
 何が良いか。美点は多い本だが、何より狭義の倫理学の諸概念だけでなく、間口を広げて医療倫理などの応用倫理の問題まで幅広く扱い、そして項目間の連関性を重視していることもあって、実践的な倫理問題を入り口にして倫理学の学問的成果の中を自由に探究していくことのできる喜びが得られるというのが、この本の最大の美点であろう。
 しかし欠点もなくはない。こうした事典の通弊として著者によって記事の出来栄えに差があるものだが、この事典もその問題をまぬがれてはいない。あえて一人名前を挙げれば編集委員の一人である加藤尚武氏のエントリーは、お忙しいこともあろうけれど、ちょっと手を抜いているのではと感じさせられるものが多い。逆に、実に読ませるエントリーもあって、特に井上達夫氏の執筆した項目はどれも充実している。
 心理療法に関わっている人も執筆している。藤山直樹新宮一成香山リカ斉藤環といった面々である。この中では藤山氏が相変わらず筆が冴えていて敬服させられる。たとえば、

いじけ
 不満を自覚しつつもそれを言語化してじゅうぶんに表現することなく、かといって他の対人領域に持ち込んでそれを解消することもなく、やや自虐的な構えで事態からひきこもっている、という状況における心性を表現している言葉である。拗ね、ひがみ、いじっぱりなどというような言葉で表現される心理と重なりをもっているが、それらの言葉と同様、明確な学術用語として定義されたことはない。しかし、それらが人間関係のある局面、とくにいくぶん病理的な側面を切り取るときにとても深い関連があることはまちがいない。

 以後、さらに精神分析的枠組みからのいじけの説明が続く。藤山氏の記述につい引き込まれてしまうのは、もちろん(この項目で言えば)「いじけ」の心理の描写の正確性という要素も影響しているが、何より藤山氏の文体の魅力に負うところが大きいといえよう。
 それはともかく、倫理というものが人間の内面的規範である以上、倫理の心理的側面は重視されるべきであり、その点この事典では心理に関するエントリーが沢山あるだけでなく、心理臨床に携わっている人たちがそれらを書いているという点で、臨床家にとってはなかなかに有用な事典となっている。