間主観的アプローチ臨床入門


 先日、オレンジらによる「間主観的な治療の進め方」という本のレビューのようなものを書いた。

間主観的な治療の進め方−サイコセラピーとコンテクスト理論 - Gabbardの演習林−心理療法・精神医療の雑記帳

 その訳者の一人である丸田俊彦氏が監訳し、小此木研究所の貞安元氏が訳した間主観的心理療法のテキストが出版されている。

 今回は、この本をとりあげてみよう。
 著者らによればこの本は「精神療法のプロセスを学ぶ学生、とりわけ間主観的パースペクティブに関心を寄せる学生向け」のテキストとされているが、実際には学生だけでなく一般の臨床家が自らの心理療法を今一度根底から見つめ直すのに役立つ格好のテキストとなっている。というのも間主観性心理療法の理論と臨床の実際を順序立ててていねいに説明していくその構成が、間主観性理論の理解に際して混乱しがちな我々の思考をずいぶんと整理してくれるということに加え、転移や解釈といった一般的な精神分析的な概念について、著者らの理論的立場から広く再検討されているからである。

 たとえば、第4章で「陰性治療反応」についてこのような記述がある。

「陰性治療反応」というレッテルを貼ることで白日に晒される治療者の態度は、「治療者が正誤を判断する唯一の人物であり、治療者は、患者にとって何が善かを患者以上に知っている」ことを示唆している。分析家の解釈は正しく、患者は、分析家の真実からの恩恵に浴すのに抵抗したとして非難されるわけである。これは、患者の反応の主観的な正当性を認識できていない、という点で、それ自体、重大な誤調律である。(p73)

 他にも第5章では、治療的対話を維持するために、「患者を傷つけるような介入は控える」ように勧めている。精神分析的な治療を、患者が精神的苦痛が生じるために知ろうとしないことを、治療者とともに理解していこうとする持続的試みだととらえるのであれば、ここにあげられた勧奨は一見精神分析の目的に反しているように見える。ではなぜ精神分析的な治療において、そうしたガイドラインが肯定されるのか。著者らは、内的な強い怒りを抱え、それが親密な他者への爆発という形で現れてしまう患者を例に挙げてその理由を説明する。
 著者らはそうした患者に対して「あなたの怒りは恋人を怯えさせている」というのは良くないという。なぜか。著者らのあげている理由は次の二つだ。1)そうした介入は恋人の主観的体験に焦点があたっており、患者のそれにではない。2)そうした発言が患者に、批判している、恥をかかせている、と体験される恐れがある。
 治療において重要なことは、怒りが恋人に与えた影響に焦点をあてるのではなく、彼の情動体験、つまり彼の怒りを呼び起こしたものに焦点を当てることにある、という。もちろん最終的には患者が内的な怒りを理解できるようになる必要はあることを著者らも認めてもいる。しかし、それは適切な治療−患者の情動体験への調律と、その体験の構造の言語化−の結果としてもたらされるものであり、解釈を与えることでそれが達成されるものではない、という。

 ここで行われている精神分析の基本概念に関する再検討は、過去の間主観的心理療法に関する主立った著作の中で繰り返し論じられていることではある。しかし体系だった間主観的理論の説明の中にこうした議論が再置されていることによって、より全体的視点からわれわれの臨床を振り返させられることになる。そういう意味で、なかなかにスリリングな読み応えのあるテキストになっている。

 しかし気になるのは、この著作に治療構造に関わる話が一切ないことである。著者らの介入はmaternalといっていいような優しさが特徴的だが、治療構造そのものを破壊するような患者、あるいは通常行われる心理療法の治療構造では間尺に会わない患者については、物理的、あるいは対人関係的な関わりを通じた枠組みづくりを積極的に行う必要がある。そうした作業はpaternalな厳しさを伴うものだ。そしてその厳しさに患者は必ず傷つくものである。この著作には、著者らの理論展開にふさわしい事例が集められているが、彼らの優しい姿勢では太刀打ちできないような患者についてどう考えているのか。疑問が残るところである。

 そうした欠点を挙げることはできるが、全体としてはよくまとまったテキストである。以前にとりあげたオレンジらの本とどちらか一冊買うなら、完成度が高く、また具体的事例における介入についての記載が多いこの本のほうが断然良い。