S.A.ミッチェル著『関係精神分析の視座-分析過程における希望と怖れ』

 
 原書は1993年に米国で刊行されている。原題はHope and Dread in Psychoanalysis。ミッチェルの翻訳を過去2冊刊行している横井公一氏と、辻河真登氏の監訳によって、2008年5月に邦訳が刊行された一冊である。

関係精神分析の視座―分析過程における希望と怖れ
関係精神分析の視座―分析過程における希望と怖れS.A.ミッチェル

ミネルヴァ書房 2008-05
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 先日『精神分析と関係概念』のレビューを書いた。

S.A.ミッチェル著『精神分析と関係概念』 - Gabbardの演習林−心理療法・精神医療の雑記帳

 その5年後に書かれた今回の一冊は、重要な論点が多数含まれており、熟読するに足る一冊だと感じた。そこで、ここで彼の本を要約しておきたい。
 
 まず序章では、本書全体の構成が示される。その際、前回の著作で関係概念の組織化の軸とされた「関係基盤relational matrix」という概念を用いず、「希望と怖れhope and dread」を導きの糸として論じていくことが明かされる。

 次に第1章「患者は何を必要としているのか」では、過去の精神分析と現代の分析状況がどのように異なるのかを説明し、現代の患者は、「本物と感じる個人的な体験」p51を求めているのだと主張する。
 まず彼は精神分析に生じている質的変化を次のようにまとめている。

 フロイトの分析状況が、感情の同様に巻きこまれている患者がより理性的な観察者による客観的な吟味に出会うことであるとしたら、現代の分析状況は個人的体験の中心が崩壊した、衰弱した、あるいは欠如した患者が、もっと受容的でもっと促進的な人間環境にであうことであると、一般には描き出されるであろう。・・・現代の著述家たちにとっては、精神病理は子ども部屋を延長しようとする無益な努力からではない、そこからの早すぎる放逐の結果として生じるのであり、精神分析は保護された回帰、ひとつの「新規蒔き直し」(バリント1968)を提供するものなのである。(pp31-32)

 そしてまた、次のようにも説明する。

 フロイトは、主観性を当然のこととして受け取っていた。古典的分析の目標は、抑圧を解除すること、無意識を意識化すること、健忘を充填することであった。しかし現代の分析者は、意識と無意識の体験に先立ち、そしてその基礎にある心的過程に、すなわち個人の意味の創造に関心を持つのである。(p42)

 さらに以下のようにも述べる。

 理性的な探究や理解は重要でないわけではないけれども、それが中心的な探究課題とはなりえない。目標とするものは、理性的な正常性の確立なのではなく、重要であり、意味があり、そして芯から自分のものと感じられる関係性や自己感を産み出す能力なのである。
(p47)

 彼は、フロイトにはじまる古典的な精神分析を支えた認識の枠組みを客体化するべく、思想史の展開の中に精神分析の理論的変化を位置づけ、関係基本図式への展開がいかに時代的に必然的なものであったかを説明していく。フロイトの時代、すなわち「近代」と括りうる時代には合理性を信じることについて時代的必然性があったが、その後の科学的知識の増大によって理性の働きに一定の限界があることが露見してきたポストモダンの時代においては、彼の思考は正当性を失ってきている、と主張し、その代わりに、現代では絶対的な真理を求める思考ではなく、文脈的な思考が有効だと述べていく。

 フロイトがその時代に合理性を各個人間の自然な橋渡しとして頼りにすることができたのに対して、今日では理性それ自体はもはやそのような機能に役立つことができない。われわれの時代における精神分析によって鼓舞される希望とは、理性による合意にではなく、個人的な意味に基盤をおいているのである。他者とのつながりを支えている架橋は、幻想と想像に取って替わる合理性からできているのではなく、幻想と想像との密接な関係のなかでの、外側から押しつけられるよりもむしろ内部から生じてくる、本物であり確かなものであると体験される感覚から作り上げられているのである。(p27)

第2章「分析者は何を知っているのか」では、古典的な精神分析家が信じていた信念のいくつかを相対化していく。そしてフロイト以後に多様に展開した精神分析の流れを歴史的に説明し、そうした理論的拡散を否定的にとらえるのでなく、多様さが豊饒さを産むのだと積極的に評価していく。彼は、この理論的拡散に対してとられた理論的対応を、経験主義にもとづいた対応、現象学に基づいた対応、解釈学/構成主義を利用した対応、の三つにわけ、このうち構成主義に基づいた立場の妥当性が高いと述べる。しかしこの場合「相対主義」に陥る危険性もあるが、バーンシュタインのいう「実践的合理性」practical rationality(p88)と呼ばれるような学問的理性に基づいて実践を行っていけば、そこに秩序がうまれるはずだ、とも主張する。


第3章「2つの革命の調和」では、臨床理論で生じている変化と、メタ理論のレベルで生じている変化とが、個別に生じているだけでは問題があるとし、その両者の統合が図られる必要があると述べている。その論述の中でミッチェルは、ウィニコットの主張の独創性には高い敬意を払いつつも、彼にはメタ理論が意識されていなかったための欠点があることを指摘している。

第4章「多重の自己、単一の自己」では、近年「自己」という概念がとみに重視されてきているにもかかわらず、不思議なことに明確な定義がされてきていない、という事実から出発して論を展開する。自己は二つの図式に基づいて論じられてきたと述べ、その一つは「空間的なメタファー」に依拠した「層状で単一で連続性のあるものとしての自己」であり、もう一つが「時間的なメタファー」に基づいた「多重的で不連続なものとしての自己」なのだという(p146)。彼はこの二つの図式をともに肯定する。自己が多面的であると同時に、その一方でそれらの要素すべてをつらぬく「自分らしさ」もまた存在する、という自己に備わるこの矛盾が、自己の定義を困難なものにすると同時に、弁証法的な発展を準備しているという点で人間を豊かにするのだ、と主張する。

第5章「本当の自己、偽りの自己、そして本物らしさの曖昧さ」では、社会的に自己が形成される以前の、身体的基盤を持つ中核的な自己というものを認めるかどうか、という点についての彼の主張が行われる。
 まず自己の中核として、「身体的体験」を置くことが可能かどうか検討し、以下のように結論づける。

・・・自己に関する身体的出来事が包含する心理的意義は、それが本来備えている特性に由来するのではなく、幼少期の関係的なパターンが自己と相対して、身体的出来事を構成したやり方に由来するのである。そのような身体的体験は自己の中核を表すことはできない。なぜならば、身体的体験は、本物らしい確かさをもつやり方としても、本物らしくないやり方としても、いずれにしろ自己の体験にとっては、むしろ手段として作動するからである。(p191)

 次に「気質」について検討するが、これもまた「自己の中核を位置づけるには問題」(p192)があると述べ、「気質的要因はそれ自体で、複雑な社会的相互作用の外側で、自己形成に関する特定の形態へと導くものではない」(p192)と主張する。

 そして、そもそも「本当の自己」というものを追い求めるのは意味がないとし、次のように述べる。

われわれにもしも次のようなことができるならば、精神分析的な理論家は、われわれ個人の個性を理解することにもっと貢献することになるだろう。それは、われわれが中核の自己または本当の自己に関する前社会的な、もしくは社会外の根源を探し求めることから免れることができて、そしてあらゆる特定の瞬間において、自分自身を多かれ少なかれ真に確からしいものとして体験したり、使用したりすることがいったい何を意味するのか、といったことに焦点をあわせることができるときである。(p223)

第6章「攻撃性と危機にさらされた自己」では、彼の理論の中での「攻撃性」の位置づけを試みている。まずこれまで論じられてきた攻撃性に関する二つの主張、すなわち攻撃性が一次的な本能と見る主張と、二次的反応とみる主張を紹介する。そして彼は、この矛盾した二つの主張を、関係性を軸にして統合しようと試みる。そのために、攻撃性を、「心の中から押し上げられるものとしてではなく、関係的文脈のなかで起こってくる他者への反応」(p242)とみなし、何らかの危機にさらされることへの反応として、攻撃性が出現するのだという。そして、そうした危機にさらされることが乳児期や早期幼児期には、「普遍的なものであるために、攻撃性は必然的に力動的な中心性を帯び」(p245)るのだという。
 このあと彼は、攻撃性を否定的に見るのではなく、その肯定的な側面に光をあてていく。攻撃性が統合されていない場合は、精神の解体という望ましくない結果がもたらされるが、「怒りが統合されている場合には、その他の動機づけや活動を生み出して、それに活力を与え」るという肯定的な結果がもたらされる、と主張する。そしてまた、「強い攻撃性に伴って起こる生理学的興奮は、攻撃性が同一化のための媒介手段として役立つという点で、重要な役割を演じることがよくある」、と積極的な意味を付与していく。そして攻撃性を「複合的な自己組織を組織化するための中心的な要素」(p257)として人格の発達の中にも積極的な位置づけを試みていく。それゆえ、攻撃性を放棄することが分析の目標ではなく、「破壊的なこころの状態を持ちこたえ、それらの状態がその人独自の主観的な、そして建設的となる見込みのある個人的体験の、数多くの表現のなかのひとつであることを認識しうる能力」(p258)を獲得していくことが目標となる、と主張する。


第7章「願望、欲求、そして対人関係的交渉」では、「禁欲原則」が関係図式においてなおも正当性があるかどうか吟味される。まずマイケル・バリントの「悪性の退行」と「良性の退行」に関する意見を紹介する。

 前者の場合には・・・要求が本能的願望に由来するものであり、本能的願望を満足させることは・・・いたましい結果になる。そして後者の場合では、要求は自我欲求、すなわち「基底欠損basic fault」をいやす努力に由来するものであり、要求が受けとめられることが、治療的な行き詰まりを乗り越える唯一の方法なのである。(p270)

 このような意見を紹介したあと、ミッチェルも患者の欲望desireが願望wishなのか、欲求needなのかを区別することの有用性を説く。しかしこの二つを見分けることは困難な課題であることも指摘している。次に、被分析者の欲望に対する分析者の逆転移について考察していく。
 この中で印象的な文がいくつかある。

分析者が誠実に患者の要望や要求に立ち向かうその姿勢そのものが、ときにその反応自体の内容よりも重要になるのである。(p279)

古典的理論の技法に祀り上げられた「禁欲」の原則は、おそらく患者が幼少期の切望を検討し続けることができないようにするためのもっとも効果的な方法のひとつになってしまている。そうした切望は、理性的な転換の過程・・・を通じて、表面上は諦められている。しかしそこには、そのようにしつけられた「成熟」と禁欲に伴う悲しさや切なさの感覚が残っている。そこで分析者が患者の解決を、それが可能なときに進んで試してみることは、もうひとつの非常に異なった種類の体験の糸口を開くのである。(p281)

 その後、分析が危機的状況に陥ったとき、その限界を突破するのは、「患者との人間的な関係性」なのか、「分析的な役割を断固として譲らないこと」なのか、という問いについて検討がなされ、ミッチェルは以下のような意見を示す。

 決定的に重要なことは、分析者がどんなことをしようとも、柔軟にあるいは断固として振る舞おうとも、分析者がそれを十分に内省しながら、疑問やそれを考え直すことに率直であることである。そしてもっとも大切なことだが、患者にとって真に利益となるようやり方で、それを行うということである。(p295)

さらに本章の最後で、以下のように述べる。

・・・その人自身の欲望と他者の欲望との間にある交渉のなかにこそ、生涯にわたる苦闘が存在するのである。分析者の専門性とは、患者の欲望それ自体と、こころ安らぐ場所を見つけようとする分析者の本物らしいauthentic参与自体とを、互いに認め合えるようになる協同の探究の中に患者を引き寄せて、その関係を発展させることにあるのである。(p303)

第8章「希望の弁証法」では、患者と治療者の「希望」と「怖れ」について論じられ、そして「終結」についても論じられて、この本が締めくくられる


 以上、長々と要約してきたが、本当によく書かれた一冊だ。折に触れ、読み返す価値があると感じる。
 あえて気になった点をあげるとすれば、タイトルにもなっている「希望」と「怖れ」の概念を、本書の導きの糸とする、といっているわりには、論述の展開においてほとんど機能していない点、くらいだ。
 
 あと、彼の理性に対する否定的態度は批判されるところかもしれない。たとえば以下の一節に見られるような、関係性を生み出す能力にくらべて「理性」を従属的に扱う彼の姿勢の妥当性は、慎重に評価すべきところであろう。

 理性的な探究や理解は重要でないわけではないけれども、それが中心的な探究課題とはなりえない。目標とするものは、理性的な正常性の確立なのではなく、重要であり、意味があり、そして芯から自分のものと感じられる関係性や自己感を産み出す能力なのである。
(p47)

 それでも歴史的文脈との関連を意識しながら、精神分析をとらえなおしていく手さばきは鮮やかである。議論は濃密かつ厳密であり、論述は自信に満ちている。前作では及び腰と感じられる部分もあったが、今回は前作で詰め切れていなかった部分についても、一歩前に出て勇敢に自説を展開していく。そうした彼の姿勢は、読むものを知的興奮に導いてくれる。ミッチェルの視野の広さと思考の強靱さに裏打ちされた本書は、精神分析的精神療法に関心を持つものにとっては、必読の一冊だといってよいだろう。