北中淳子著「鬱のジェンダー」

 臨床精神医学2008年9月号の特集「うつ病周辺群のアナトミー」にざっと目を通した。興味深く読んだが、中でも医療人類学者である北中淳子氏の「鬱のジェンダー」(臨床精神医学37(9):1145-1150,2008)という論文が読ませる。

 過去発表された北中氏の二論文の要約が、立岩真也氏のホームページに掲載されている。
鬱/うつ

 また過去、立命館大学で開催されたシンポジウムの指定討論の発言も公開されている。
http://www.human.ritsumei.ac.jp/hsrc/resource/series/01/pdf/01_72.pdf
 医療人類学の成り立ちと現在の課題がよくわかる発言である。

 本論文「鬱のジェンダー」の構成は以下のようになっている。

1 鬱のジェンダーと文化差
2 日本におけるうつ病患者のプロトタイプ
3 男性の鬱:過労の語り
4 女性の鬱:「大きな物語」の欠如
5 脱ジェンダー化と「鬱の意味」再考

 内容を要約しておこう。

1 鬱のジェンダーと文化差
 本論文で北中氏は、「鬱のジェンダー」に関する日米の違いに注目する。「北米においてうつ病は長い間「女性の病」female maladyとして語られてきた」と指摘し、「北米の精神科医も鬱というと、子が巣立った後に虚しさを感じ、眠れぬ日々を過ごす中年主婦や、自己実現の難しさに悩む若い女性を思い浮かべるようだ」とMetzlの研究に依拠しつつ述べる。しかし日本では、「不況で追い詰められ、過労状況に陥って発症するサラリーマンの鬱」がメディアで繰り返し語られていると指摘し、このような文化差をどう理解するのか、がこの論文の主題であることが示される。

2 日本におけるうつ病患者のプロトタイプ
 この文化差を理解する鍵概念として、アラン・ヤングの「プロトタイプ」という概念を持ち出す。彼の指摘、「臨床家は必ずしも厳密な診断基準だけによるのではなく、典型的な患者を想定したプロトタイプを用いて診断・治療を行うことを想定している」を紹介し、「プロトタイプは診断を容易にするが、それは必ずしも疫学的に「正しい」患者群を拾っているものとは限らず、あくまでも「表象」のレベルで理解されるべきものだろう」と指摘する。その上で、日本では、「下田光造の執着気質−テレンバッハのメランコリー親和型へと連なる一連の病前性格論」が、日本の「働く男性」を中心としたうつ病プロトタイプの形成に寄与したと指摘し、さらに下田以後の変化として「テレンバッハの状況論と反精神医学運動を経て、社会因により踏み込んだ論へと変化していった」と指摘する。

3 男性の鬱:過労の語り
 うつ病に関する人類学的フィールドワークを行う中で、男性のうつ病患者では、「過労の病」というプロトタイプが共有されており、それが「治癒的神話」−神田橋のいう「大きな物語」(うつ病の回復過程の指標、精神科治療学1:1986)を与え、回復の道を指し示すのだと述べる。一方で、「他に存在するかもしれない夫婦間の問題、親子の軋轢といった私的領域への深入りを回避することで、男性のうつ病の語りは仕事という「公的領域」に焦点化されていく」と指摘し、私的領域を否認することで成り立っている語りの欺瞞性を指摘もしている。

4 女性の鬱:「大きな物語」の欠如
 しかし女性の場合は、一般的に「大きな物語」に身を委ねられないのが特徴だと指摘する。その理由として、北中氏のインタビューした女性の多くが、「男性のような明確の語りのパターンを示さず、その原因、経過にしても、男性よりもはるかに曖昧で、定式化されたストーリーに落ちていかなかった」からだという。
 さらに北中氏は、そもそも男女間で、「うつ病の経験の構造自体が以下の三つの点で異なっていた」と述べ、受療行動の差、医師患者関係の違い、うつ病の意味に対する不確実性をあげて、その異なる点を説明する。


5 脱ジェンダー化と「鬱の意味」再考
 現在世界規模で生じている「鬱の医療化の特徴」として、「うつ病が仕事や生産性という「公的領域」で捉えなおされていること」と、「そのような懸念が”男女平等”に向けられていること」の二つを指摘し、鬱の「脱ジェンダー化」が進んでいると指摘する。
 また日本では、米国にくらべて「うつ病が個人の生物学的問題を超え、社会病理として広く語られている状況」にあると指摘する。そこで北中氏が明らかにした、うつ病の社会的意味の一つの解釈は示唆に富むので、引用しておく。

 「過労の病」に注目することで、日本の精神医学は、うつ病にある種の社会的正当性を与えることに成功した。個人の弱さや欠陥ではなく、社会的状況に視点をシフトさせることで、精神障害の道徳的意味を反転させたともいえる。・・・日本の精神医学の提供する語りは、うつ病男性に、過酷な労働状況だけでなく、それまでの自分の常識や生き方を相対化するきっかけを与えてきた。他方で、既存の「大きな物語」に抗うかのように、自らが鬱の構造化にどう寄与しているのか振り返り、別の生き方を模索するうつ病女性たちは、精神医学があえて蓋をし語ってこなかったagency(主体性)の問題について、今後新たな思索を生み出す原動力となっていくのかもしれない。

 この論文は、氏の博士論文(Society in Distress: The Psychiatric Production of Depression in Contemporary Japan. McGill University, 2006)を基にして書かれたという。それを商業誌向けに主に結論だけを抽出してまとめたものであるため、こうした結論が導出されることになった研究方法と、データの解釈の妥当性が判断できないのだが、しかし、それでもこの主張内容については教えられることが多い。

 ただし、インタビュアーが女性であり医療人類学者であるということ、そして北中氏のパーソナリティや抱えている葛藤、それらがインタビューの際の語り手の「語り」の内容に与えている影響があるはずだ。たとえば、北中氏自身が、家庭と社会生活の間での何らかの葛藤を体験している場合、インタビューの際にそうした葛藤を引き出してしまいがちとなるだろう。研究者自身の属性や抱えている内的問題が、語り手の発言内容に無意識的な影響を与えているはずである。だとすれば、そうした「語り」から導きだされる結論にも一定の情動的バイアスがかかっているはずである。その影響を、医療人類学的研究においてはいったいどのように処理しているのだろうか。
 学問の方法論に関する問題なので、きっと文化人類学や医療人類学の内部では、徹底的な議論が行われているはずだ。また機会があれば、勉強してみたい。