精神分析、良い死、無益な生

 今日から日記をはじめてみることにした。今までいろいろ試みたが、ブログというツールになじんだ内容も文体も構築できておらず、うまく使えている気がしない。多分、読み手に近づこうとし過ぎているのだと思う。しかし捨てがたいツールなので、もう少し自分という書き手に近い位置に立って書いてみる。

 精神分析学会に参加。福岡より帰る。ぐったり疲れた。
 気になったこと。精神分析の至上性を信じる人のこと。強烈な不安を引き受け発展的な思考を生み出していくことには、意味がある、としても、それは至上の価値を有してはいないはずだ。なぜ、そっとしていてはいけないのか。そうさせない理由は何なのか。
 立岩真也氏『良い死』を読み進める。「無益」な生について。「無益」であることを決めるのは誰か。中井久夫氏『世に棲む患者』を読み返し、彼のロジックを確認せよ。信仰者の心的生活を価値が低いとみる視点に、「無益さ」を他者が決めてしまう危険性が共有されている。