「真率さ」の意義

 ようやくDNARに関する文書の第1案が完成し、議論の俎上に乗せた。かなりの議論になったが、どの意見もとても勉強になる。現場の看護師さんが強く反応してくれて、手応えを感じた。
 やはりAutonomyについて、代理決定についてなど、もっとつめて考えなくてはならないと痛感した。

 遅い夕食はガストで。焼き鯖定食を箸でつつきながら読んだスポーツ新聞に、「小室哲哉の転落人生、最近の食事はファミレス、ファストフード、コンビニ弁当」という記事発見。思わずみそ汁を吹き出しそうになる。自分も同じ食生活だが、この生活は「転落人生」なのか、と。

 夜、風呂につかって、「真率な人」について考える。
 そういう人を言い換えれば、腹に一物を抱えていない、とも裏表がない人だともいえる。そう考えるとわかりやすくなる。なぜなら真率でない人とは、腹に一物を抱えている人であり、その人に統合されていない部分(「一物」)が存在している人だということだ。全体的にみれば、統合への意欲を欠いており、ただ塊になっているということ。裏表のある人も、その二面に連続性がない人だということだ。そうした人は、他者の「部分」しか見ていない。
 真率な人、というのはそういう裏表もなく、腹に一物ももっていない人だ。あるいは、そういう部分があったとしても、自分の中のそういう部分を受けとめ、統合しようと努力している人だということだ。だから、意見の異なる人についても、受けとめようとしてくれるはずだ。もし彼と考えの違いがあっても、そうした統合への努力をしてくれる人であれば、異なる意見に対しても真摯な対応をしてくれるはずだ。こちらもその真摯さに応えることができるのであれば、互いを手段として用いるのでない「友情」がうまれるのだろう。
 しかし、その友情は、一片の淋しさによってつながるものでもある。
 などと考えていたら、すっかりのぼせた。
 明日は20年ぶりの弘前へ。講演の予定。