弘前で「品」を考える

 20年ぶりの弘前弘前駅から土手町をまわり、岩木山をのぞみつつ弘前城へ。そして講演会場。

 20年前は「美人の多いところだなあ」と感激したが、今回も同じ印象。前はただ感激しただけだったが、今回なぜ美人にみえるのかと少し考えながら街を歩いて、あることに気がついた。所作や言葉に独特の品があるのだ。多くの人がバスでも座るときにかならず近くの人にお辞儀をして座る。それが決してわざとらしくなく抑制がきいている。津軽弁のイントネーションもまた素朴でありながら決して野卑でなく、洗練されているわけではないが品がある。それが内面的な美しさを感じさせるのだ。
 「品」について精神分析的に考えると面白そうだ。和英辞典を見ると「品がある」はcultured、refined、elegantなど、「洗練された」というニュアンスの言葉があげられているが、ちょっと違う気がする。この違いを試みに考えてみよう。
 共同体の中で生活することによる同調圧力がかかり、自発性を抑圧せざるをえなくなるが、その集団(家や集落)の「歴史」に連なることによって、卑小な自己をより高い意味のある物語の中に配置して自己を安定させる。そこに「品」がうまれる。そんなメカニズムを想定すれば、「品」の背後には自発性の展開を断念することの悲しみや諦観が存在していることになる。だから「洗練」の背後には自己の発展の「喜び」があるが、「品」の背後には断念の「悲しみ」があり「覚悟」がある、という違いがある。
 と仮説を立ててみたが、どうだろう。

 講演(というより学習会の規模だったが)、大過なく終了。直後はあまり質問が出なかったが、その後の交流会で参加者から「よかった」「感激した」と言っていただけた。患者際で踏ん張っている人からそういってもらえることが、何よりうれしい。

 筑紫哲也氏が亡くなったと。ネットで記事をよんでいたら、筑紫氏の重要な指摘を発見。

がんになり、発見があった。・・・「いくら情報を与えられても、自分で思うほど賢くはなれない」。結局は他人に言われるままになる。そして悪い結果が出れば「自分の責任」となる。「底にあるのは、人間は賢者になれるという壮大なフィクション」
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20071127/

 Autonomyの虚偽性が、実感をもって語られている。この感覚は重要だ。

 夜、N. Symington著『Pattern of Madness』。不覚にも涙す。その後、太宰『津軽 』。