ブログの意義を理解しはじめた

 今日は何かしたような、しなかったような一日。
 日記をはじめてブログというツールの価値がようやくわかってきた気がする。やはりいままでは、他者の目を気にしすぎていた。論文であれば確かに他者の目、あるいは第三者的な視点を十分に内在化する過程が必要で、その中で議論を洗練させ彫啄することによって普遍化を達成し、その上で論文を書き上げることが求められる。だからそんなにほいほいとは書けないものだ。ブログでそれに類した作業をしようとすると、なかなか記事をアップできず、結果としてブログの長所を消していくことになってしまっていた。
 しかしブログでは、論文におけるこの順序(他者の目を内在化してから→書く)とは逆の作法でのぞめばよいのだとわかった。書いていけば、結果として他者の目が内在化されていくということだ。まずくだらないことも含めて自分の思考、あるいは思考になる前の断片でもよいから、とりあえずブログの中においてみる。すると、そのくだらないことに関する自分の感性や思考に他者の目が宿りはじめる。その結果として自然と思考が磨かれ、生活の全体が活性化していく。
 そういう循環を体験しはじめたものだから、面白くなってきた。いずれはこのツールにあきるかもしれないが、もうしばらくは続けてみよう。

 夜はN. Symington『Pattern of Madness』を引き続き。自由な精神を持つことが人間にとって重要な目標であるが、そうした自由の達成を妨げる性質が人間には本来的に備わっている。そうした妨害によって自由を失った状態がmadnessだと、Symingtonは主張し、このmadnessの図式を提示してその要素を仔細に検討している。
 この本での彼の心に関する想定は、なかなか面白い。「ゲル状」の心を想定しているのだ。新鮮であり、彼の独創がよく現れている。そもそも心を多数の分割した要素の集合体とみる見方はイギリス経験論から受け継がれてきた長い歴史を持つ視点であって、Bionもそうした視座を受け継いでいた。だからSymingtonのように「ゲル」として全体を捉えるのは新しい視点だし、実際の心のアナロジーとしてもより妥当だと感じる。