『異文化としての子ども』を読む

 診療に追われ、書類記入に追われた一日。
 夕刻、福祉事務所職員の方と会って、ケースに関する聴取を受けた。しかしこの職員の方の関心が、生活保護の「適正化」だけに集中していることにひどく落胆した。なるほど、財政が危機状態にあることはわかる。しかし福祉が経済的再分配だけでなく、個々人の自立支援をも積極的目的としていることを現場職員が見失ってしまっているようでは、再分配の『適正化』が進んでも結果として対象者を精神的に追い詰めてしまい、自立支援という所期の目的を達成できないことに終わるのではないだろうか。財源論は一筋縄ではいかないとしても、現場職員がもっと福祉の本質を振り返りつつ業務にあたれるような、組織的風土が福祉事務所内に欲しい。

 約10日後に「大人になることの困難」について、看護師の方々にレクチャーの予定がある。そこでしばらく「子ども」や「思春期」をテーマにした文献を読み直していく。

 本田和子の『異文化としての子ども』。章によって出来、不出来はあるが、縁日・見世物の祝祭性について取り扱った章は良く書けている。子ども達は見世物のいかがわしさや紛い物的な要素に惹きつけられ、そこに非日常の世界を発見し、一体化する。そこで感じる危うい興奮とある種の官能は、親には話せない秘密の世界でもある。それはさらに引きずり込むような強力な吸引力を持ってもいるが、強制的に幕が閉じられることによって、子ども達は現実へと帰還していく。われわれ治療者は、この見世物のもついかがわしさが、精神療法にも含まれていることに自覚的であることが大切だろう。
 また山口昌男の指摘を踏まえて、縁日が他者との合一へと導く祝祭であるのとは対照的に、「病」という負の祝祭は個と出会う体験であるとし、その象徴的意味を描き出しているところも印象的だ。
 夜更けてから、宮本常一家郷の訓』へ。