忙中読書記

 ここ数日、ばたばたとして更新できなかった。
 まだばたばた中だが、読書録だけは書いておきたい。

 まずE.H.エリクソン著『ライフサイクル、その完結』と『老年期―生き生きしたかかわりあい』を読んだ。特に前者はその濃密な思考に感激した。重要な本なので、別にエントリーを立てる予定。

 梅原猛著『日本人の「あの世」観 』。レヴィ=ストロース氏とドナルド・キーン氏を招いて1988年に開かれた国際研究集会での発表原稿。レヴィ=ストロースを前にしているためか、かなり力のこもった内容となっている。印象にのこった部分を引いておく。

 ・・・親鸞の浄土論を図示すると、私は、不思議な暗合に気づくのです。それは、先に私が分析した、日本人が、おそらく縄文時代以来持ち続けていたと思われる「あの世」観に一致することです。浄土論は、源信から法然法然から親鸞へと発展する過程で、日本人の原「あの世」観に近づいたということになります。(p54)

 この日本人の原「あの世」観というのは、死後にたましいがあの世とこの世をいったり来たりするイメージで、現代の葬式でも「あの世から見守って欲しい」といわれることが多いことから考えると、このイメージは今でも多くの人に共有されていると思われる。
 上にあげた梅原の主張を支える論旨は以下のようにまとめられる。源信の往生要集ではまだ、ひたすら阿弥陀浄土のことを思い続ける念仏の行を積んだ人のところに、阿弥陀仏が臨終の時に来迎する、という考えであり、いわば特別な人にだけ可能な浄土思想であったという。それが法然によって口称念仏が唱えられ、大衆にも救いが与えられることになり、さらに親鸞によって往相廻向(生きものが浄土に往生して仏になる)と還相廻向(それがまたこの世に還って利他教化の働きをする)とが理論化されることによって、仏教理論が日本人の原「あの世」観に近づいた、と主張している。

 さらに梅原はこの原初的「あの世」観に、「生命の持続、あるいは生命の永久の循環」(p67)という思想が含まれていることを重視し、次のように言う。

 私が永久の循環運動というと、多くの人はニーチェ永劫回帰の思想のことを考えられるかもしれません。確かに、ニーチェ永劫回帰の思想には、この「あの世」観に含まれる思想の影のようなところがあります。しかし、ハイデッガーが言ったように、ニーチェ永劫回帰は、デカルト以来の自然哲学の帰結であり、その頂点であります。彼は現在を永遠化、意思を絶対化するために、永劫回帰の思想を要請したと言えます。私がここで語ったのは、その反対です。それは人間を宇宙の中の生命の永久の運動の中でとらえ直そうという思想であり、それは、近代の誤った自我中心の哲学をもう一度、自然の中で考え直そうとするものです。(p68)

 ややプリミティブな「あの世」信仰に過大な評価を与えすぎの感がないではないが、全体としては面白く読んだ。

 それから、柳田國男著『先祖の話』。1945年刊。本当に面白い。引用したいところが一杯。
 あと内田樹著『死と身体―コミュニケーションの磁場』。2004年刊。この著者の本は今まで読む機会がなく、今回はじめて読んでみたが、人気がある理由がわかった。自分が腑に落ちるまで考えたことだけをいう人だからだ。いろいろ読んでみよう。
 小澤勲著、『痴呆を生きるということ』も読んだ。これは良い本だったし、レクチャーにも使えそうだ。が小澤氏の過去の活動を考えて、複雑な思いを抱きつつ読み終えた一冊だった。最近なくなったとニュースで知ったこともあり、一度、小澤氏の仕事についてはエントリーをたてて考えたい。

 現在進行中は、、ボーヴォワール著『老い』、宮田登、新谷尚紀編『往生考―日本人の生・老・死』。
 「老いと死」のテーマ以外では、G.O.Gabbard著『Boundaries and Boundary Violations in Psychoanalysis』を。これについても別エントリーを立てて考える予定。