中年期の一冊:アリストテレス著『ニコマコス倫理学』

  精神分析は、自分の中の見たくないものを見ることを通じて、より全体的に生きることを志向した営為と考えられる。全体的に生きるということは、よくあるwell-beingことと同義とみなしてよいだろう。ではそうした生き方がなぜよいとみなしうるのか、ということを考えなくてはならないわけだが、この領域は精神分析プロパーの中ではあまり語られていない。そこを考えるためには哲学にいかねばならず、それゆえ昨日からプラトンの『メノン』と『ゴルギアス』を再読したわけだが、今日はアリストテレス著『ニコマコス倫理学』へ進む。とりあえず上巻だけ。要約が巷間溢れている本なので、ここでは私にとって大切なところだけまとめておく。
 なおアリストテレス倫理学に関するStanford Encyclopedia of Philosophyは以下のリンク。
Aristotle’s Ethics (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
 SAPではアリストテレス倫理学の特徴を、「プラトンは、善について理解するためには、科学や形而上学のトレーニングが必要だと考えたが、アリストテレスはそれを否定した。よく生きるためには、友情や喜び、徳、名誉honorなどが全体として調和させることがしっかりできていることが大切と考えた」という点においている。
 ではニコマコス倫理学の本文へ。
 まず善い行為をなすことによって初めて「善きひと」になれるのであり、考えているだけ、口だけ、ではなれないと主張する。

 かくして、ひとは正しい行為を行うことによって正しいひととなり、節制的な行為を行うことによって節制的なひととなるということは妥当である。かかる行為をなさないでいては、誰しも善きひとたるべきいかなる機会をも持たないであろう。
 しかし、実際はかかる行為をなさないで言論に逃避し、そして自分は哲学(フィロソフェイン)しているのであり、それによってよきひととなるであろうと考えているひとびとが多いのであって・・・(p66)

 人間の徳(アレテー)が実現しているのは、どんな状態であるか。

 人間の「アレテー」とは、ひとをしてよき人間たらしめるような、すなわち、ひとをしてその独自の「機能」をよく展開せしめるであろうような、そうした「状態」でなくてはらない。(P68)

 それが達成できるのは中庸(メソテース)であるという。たとえば見事な作品というのは

そこには取り除くべき何ものもなく付加すべき何ものもない(p70)

ようなものであることからもわかる。中庸が二つの両端の特性の両方を兼ね備えている状態であるからこそ、その両方を展開させることができるがゆえに徳(アレテー)ということができる。しかし「中庸」を実現することは困難でもある。それは次のような理由からである。

 かくして、倫理的な卓越性すなわち徳とは中庸であること、ならびにそれがいかなる意味においてであるかということ、すなわち、それは二つの悪徳−過超に偏したそれと不足に偏したそれと−の間における中庸であること、そのかかる性質のものである所以は徳が情念(パトス)や行為(プラクシス)における「中」を目指すものたることに存するということは充分に述べられた。よきひとたることが努力の要る仕事である所以である。なぜかというに、いかなる場合においても「中」を捉えることは困難な仕事であり、・・・怒るということも、また金銭を与えたり費やしたりするということも、それだけならばあらゆるひとに属し容易であるが、然るべきひとに対して、然るべきほどを、然るべきときに、然るべき目的のために、然るべき仕方で与えたり費したりするということは、もはや必ずしもあらゆるひとには属せず、またやさしいことではない。(pp79-80)

 このあとさまざまな徳の中庸についての論議が続く。この本の後半で「真理認識(アレーテイア)」する手段についての議論が行われる。

 いったい、「われわれの魂がそれによって、肯定とか否定とかの仕方で真を認識(アレーテウエイン)するところのもの」として、われわれは五つのものを挙げなくてはならぬ。技術(テクネー)・学(エピステーメー)・知慮(フロネーシス)・智慧(ソフィア)・直知(ヌース)がそれである。思念(ヒュポレープシス)、臆見(ドクサ)を省くのは、こうしたものをもってしては偽に陥ることが可能だからである。(p220-)

 エピステーメー、ドクサ、フロネーシスなどいずれも使用する哲学者によって意味が微妙に異なることに注意しつつ読むべし。アリストテレスの場合、フロネーシスは

 「知慮あるひと」(フロニモス)の特徴と考えられているところは、「自分にとってのいいことがら・ためになることがらに関して立派な仕方で思量(ブーレウエスタイ)しうる」ということにある。それも決して部分的な仕方で、たとえば、どのようなものごとが健康とか体力とかのためにいいかといったことについてではなく、およそ全般的な仕方で、どのようなものごとが「よく生きる」(エウ・ゼーン)ということのためにいいか、についてなのである。(p223)

 そして、善きひとであるためにはフロネーシスが必要不可欠だと説く。

 ・・・知慮(フロネーシス)なくしては勝議における善きひとであることはできないし、また、倫理的な卓越性ないしは徳(エーティケー・アレテー)なくしては知慮ある人たることはできないものなることがあきらかになった。(p247)

 いやー、面白い。何もなかったところから、ここまで厳密な議論を構築したアリストテレスはやっぱり天才だ。しかし、中年にならないとこの魅力は感じにくいかもしれない。研修医のY君にこの本のことを聞いたら、「ああ、眠るのには最適の本ですね」だって。