ピアノを弾きつつ『ニコマコス倫理学』を読み進める

 一昨日から発作的にピアノの練習を始めた。といっても深夜に15分ほどだけ。ジャズが好きなので、いつの日かバド・パウエルのように『クレオパトラの夢』を弾きたい!などと夢を見て、教本を『初心者から学べる ジャズポピュラーピアノ教室』に選定。最初の練習曲は、と見れば、おお『ジャンバラヤ』だ。簡単そうだ。それにいつかはカーペンターズばりにピアノにのせて歌えるかな、などとにやけつつ練習開始。しかし右手と左手で違う動きをするのがついていけない。つい、同じ動きになってしまう。悪戦苦闘しながら10分経過。苦しい。ぜんぜん楽しくない。
 早々にあきらめ「歌謡曲のすべて」みたいな楽譜集を取り出して、右手だけで吉田拓郎の『夏休み』と赤い鳥の『竹田の子守歌』をぽろぽろとひく。うーん、これのほうが楽しいぞ。ということでこの3日間のうち大半は、なつかしの昭和歌謡ばかり弾いていた。こんなことでバド・パウエルに近づけるのだろうか。
 さて読書はアリストテレス著『ニコマコス倫理学』の下巻に入っている。下巻は抑制と無抑制、愛(フィリア)、快楽とが論じられ、結びで幸福(エウダイモニア)について再び論じられて、彼の「政治学」へと連結されていく。

 ここでは愛(フィリア)について簡単にまとめておく。
 彼に寄れば、愛は三種類にわけることができる。まず最初の二つは、有用のための愛と快楽のための愛。有用のために愛している人は、自分にとっての善を愛しているだけであり、快楽のために愛している人は、自分にとての快を愛しているだけである。すなわち

愛する相手の「ひととなり」(エートス)のゆえにではなく、かえって相手が有用であり快適であるかぎりにおいて愛しているのである。それゆえまた、これらの愛(フィリア)は非本来的な性質のものでしかない。ここでは、愛する相手は、彼がまさにそうであるところのひとたるかぎりにおいて愛されているのではなく、かえって、彼らが何らかの善または快楽を提供する限りにおいて愛されているのだから。(p71)

 三つ目の愛の形は、善き人々、つまり卓越性において類似した人々の愛であり、それこそが本来的な愛である。しかし希有なものでもある。なぜならそれを実現するためには、

時を経、昵懇を重ねることが、なおその上に必要である。というのは、諺に言うほどの「塩を一緒に食べた」のちでなくてはお互いを知ることができない。だから、愛さるべきひとであることがどちらにとっても明らかになり、相手の信頼を博するようになるまでは、お互いを受け容れることもできず、真の友たることもできないのである。(P74)

 真の友愛というものは達成しがたい。しかし「有用であるから」、「快適であるから」結ばれている人間関係だけでは、その有用さ、快適さが失われたときには皆が立ち去ってしまい、孤独に陥ることになる。互いに相手を手段としてしか扱わない相互関係の中でしか生きられなくなると、そこに人間性というものは開花しない。
 そうした人間の卓越性に基づく友人については、

・・・ひとはむやみに友人の多いことを求めることなく、生を共にするに耐えるほどの人数にとどめるのがいいのである。(p143)

 うーん、良い本だ。まったくもって偉い人だ、アリストテレスは。