苦労して読む『善の研究』

 西田幾多郎著『善の研究 <全注釈>』を読みすすめている。ようやく第1編「純粋経験」、第2編「実在」を読み終えた。西田のロジックを追うのが大変で、理解できているか心許ない。注釈を頼りにして、ひーこらひーこらくらいついていく感じ。こりゃ体力勝負だ。

 第1編と2編の中で、2ヶ所、特に私が重要だと感じた論点を抜き出しておく。

 純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。反って具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一つの体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。(p36)

・・・しかし、我々が真理といっているものははたして全く主観を離れて存するものであろうか。純粋経験の立脚地より見れば、主観を離れた客観というものはない。真理とは我々の経験的事実を統一したものである、最も有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。真理を知るとかこれに従うとかいうのは、自己の経験を統一する謂である、小なる統一より大なる統一に進むのである。しかして、我々の真正な自己はこの統一作用そのものであるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である・・・(pp91-92)

 ここまでの西田の主張について少しまとめつつあるが、そのアップは明日以降に。

 その後、苅部直著『移りゆく「教養」』を読んだ。以前、氏の『丸山眞男―リベラリストの肖像 』を面白く感じ、ほぼ私と同世代ということで親近感が湧いたこともあって、さらに処女作『光の領国 和辻哲郎』も購入してみたらこれも良かったので、信頼できる思想史家だと感じていた。しかし、今回の本は、うーん、どうだろう。期待値が高かっただけに、物足りない思いで読み終えることになってしまった。「教養」をめぐる過去の多くの主張を文献を渉猟しつつ紹介しており、情報量は確かに多い。しかし文献渉猟を通じて著者の思考がどのように培われていったのかが十分に示されないままに、「教養は大事だよ、本を読んで思考を鍛えていくことが大事だよ」といった平凡な結論に終わってしまっているので、なんだか肩すかしにあった気分になってしまう。こうした構成は意図してとったものだと著者は第5章冒頭で説明しているが、やや説得力に乏しい。多分、そう説明しなくてはならない構成の弱さを著者自身も感じていたに違いない。