「非人間的な医療」を作り出す報道の非人間性について

  医療事故の報道を見ていると、医療者が患者を「人間らしく扱っていない」かのように読めてしまうことが多い。なぜそう読めるのか、ちょっと考えておきたい。
 議論の入り口はいろいろ設定できるが、ここではとりあえず一つの典型として、少し古い本だが1999年刊の生井久美子著『人間らしい死をもとめて―ホスピス・「安楽死」・在宅死』という単行本の記載を題材にして考えていく。(なお、この本自体は世界各国の終末期医療の諸側面を広く紹介した良心的な本である。そうした良心的な本でも、現代の医療報道における特徴的な面が出ているから取り上げているのだと理解していただきたい。)
 終末期患者にバルンカテ、CVカテなど、いわゆる「チューブ」が装着されることがある。それぞれ医療上必要性があって行われることだが、チューブが沢山ついた状態については「スパゲッティ症候群」という呼称に象徴されるような極めてネガティブな印象が与えられることが一般的だ。チューブを多数装着する医療は「人間らしい死に方」を妨げるものとして非難される。

 多くの人が、病院で最期を迎える。静かに死にたくても、濃厚な延命治療によって、簡単には死ねない時代でもある。看護・介護の質の貧しさから、口から食べられるのに、鼻からチューブで栄養を入れられる。そのチューブを自分で抜いてしまうからという理由で、ベッドに両手で縛られる。そのまま惨めな末路をたどる人もいる。カギのついた抑制服(つなぎ寝間着)を着せられた姿で亡くなる人もいる。・・・
 それまで個々に名前を持ち、学び、働き、笑ったり、怒ったりして生きて来たひとりひとりが、ただ「患者」「寝たきり老人」「痴呆」として、名前も呼ばれず、物のように扱われる。どれも、人間らしい死に方とは言えない。(pp.v-vi)

 情緒喚起的なこの文章を読むと、バルンカテ、CVカテ、鼻腔栄養、胃瘻造設、といった「延命」処置を行うことは、「人間らしく扱わない」非人道的行為だという印象が強烈に与えられる。しかし、報道記者によって書かれたこの文章には、報道の人たちの思考の特徴的な欠点がはっきり現れている。

 まず、この文章では、重度認知症の患者に接する職員には「心」が存在していないかのように描かれている。もしこうした患者を担当した医師や看護師が、患者の苦痛を受けとめる自身の心の動きを完全に否認し、ロボットのように心なく活動していたならば、「人間らしくない」医療という表現が適当ではあるだろう。
 というのは、処置の「人間らしさ」を決めるのは処置内容ではなく、その処置を決定し、実施する際の治療者、患者間の情動的交流の質であるからだ。だから援助者の心の中で患者との感情的な交流や、それにともなう援助者の精神的な葛藤が完全に否認されていれば、どのような処置が行われたとしても、それは「人間的」とは言えない。
 たとえば、嚥下困難から肺炎を繰り返し起こすようになった重度認知症患者がいるとする。それに対して普通医師や看護師は、「やはり口から食べさせてあげたい」と経口摂取にこだわりたい思いと、肺炎にともなう身体状態の悪化や苦痛を回避するために鼻腔栄養や胃瘻造設を行わねば、という思いとの間で迷うものだ。そこには葛藤がある。この葛藤の末に何らかの決断をし、実際に処置を施行する/しないわけだが、この迷いや葛藤を引き受けて決断するという過程が、「チューブを入れる」「入れない」の実際の処置内容にかかわらず、この処置を人間らしいものにしているのである。逆にそうした葛藤を経ずに、「チューブなんかいれなくていい」とか「チューブいれといたらいい」という判断で行われた処置は、どちらの選択が行われたとしても人間らしいものとは言えない。

 この前提を踏まえて、先の文章の構造を理解してみる。まず著者は、この部分で彼女が取り上げた患者たちの医師や看護師と出会うことはなく、その人たちの心の中の葛藤を描いていない。医療者の葛藤は取り上げず、患者が元来有していた人間的側面の多くを失ってしまった老人の姿という重い現実と、その現実を知って喚起された記者の情緒だけがならべられている。だから、重度の認知症の方々の疾病起因的な非人間的な特性が、「人間らしく扱っていない」処置によって引き起こされた、という記者の判断につながり、その判断が読者に予見を与え、結果として医師や看護師は、「非人間的」な悪人という表象として読者の心の中に刻み込まれていく。こういう構造になっている。

 現在の医療事故の報道の多くは、こういう構造の上で行われている。もちろん現在判明している事実と双方の言い分だけを淡々と伝える記事であれば良い。しかし情緒的な情報(患者家族の悲痛な訴え、など)が掲載されることが多い。その際、被害者家族の苦悩は描かれることが多いが、医療者の苦悩は描かれることはほとんどない。だから報道で、事故の事実関係や被害者家族の苦悩という情報がいくら詳細に与えられても、医療者の苦悩が描かれなければ、「非人間的」な医療者によって引き起こされた事件、という印象だけが深まっていくことになってしまう。

 しかしここで重要なことは、一部の心ない記者が描く医療者の「非人間性」のそもそもの源泉は、そうした記事を書く報道人の心の中にある、ということだ。なぜなら報道人が医療者の苦悩を描かないことは、医療者の苦悩を大切なものとして尊重していないことに他ならず、それは医療者を非人間的に扱っていることでもある。報道の人による、医療者に対する非人間的な姿勢が、医療者を非人間的なものとして描く行為へとつながる。その無意識的連結に気がつかない記者は、彼がつくりあげた「非人間的な医療者」を悪人として叩くことで、「社会的正義の実現に寄与している」という自負心が保持拡大され、記者の自己愛が肥大化されていく。ここには、自己完結的な負の循環が働いているだけである。最近問題になっている「医療崩壊」の原因として、こうした報道の自己愛的側面が影響していることは否定できないだろう。
 マスコミが人々の心の布置に与える影響は、彼らが思っている以上に大きい。だから医療をより人間らしいものにするためには、医療者も患者も努力をする必要があるが、報道の人たちの努力が絶対に欠かせない。その努力とは、現場の記者一人一人が、医療者、患者双方の葛藤を自分の問題として抱え、考え、その思考の上に記事を書く、という当たり前の作業をじっくり行ってもらうことだ。すなわち、患者についてだけでなく、医療者についても人間らしく扱ってほしい。その上で、善悪二元論的な原始的思考に陥りがちな、現代の報道の風潮にあえて逆らう勇気を持ってほしい。それがその記者本人の人間性を大切にするということにもなるからだ。
 もちろん実際には、良心的な記者の方々が大半なのだと思うし、質の高い報道がなされることも多い。そうした方々とは協力して、医療をより良い物にしていければと思う。しかし中には、ここで書いたような傾向が支配的になっているように見える報道機関が存在している。それが残念で仕方がない。多分、その報道機関の内部に何らかの精神的危機が存在していることの、裏返しなのであろうけれど。