西田幾多郎著『善の研究』を読む

 西田幾多郎著『善の研究 <全注釈>』を読み終えた。時間がかかったが、それに見合う収穫の非常に多い濃密な一冊であった。
 自分にとって必要な部分を、自分の読み方でとりあえずまとめたごく短い梗概を載せておく。

 人間は本来、全体的な存在である。そうした存在においては「純粋経験」が生じている。この経験は能動的であり、統一的である。純粋経験をもたらしているものは統一的或者(実在、神)であり、それが分化発展する中でさまざまな心的機能(知覚、注意、意志、思惟など)が生じて、統一が失われていく。しかしここで生じたそれぞれの心的機能は純粋経験の特徴を共有しており、それぞれが統一作用を持っている。たとえば知覚も、客観的に存在するものをありのままに見ているようでありながら、実際は何か統一的に把握しようとする力によってそのように見えているのである。ここに統一的或者が機能していることが察せられる。また具体的実在としての自然も統一作用によって存在しているのであり、そこには統一的自己が存在している。このように統一作用をもった種々の体系は、互いに衝突しあうが、それによって意識に現れてくる。
 自己意識というものも統一的或者から生まれたものである。自己意識に従って行動している場合は、自由にふるまっているようでも本質的には自由とはいえない。あくまで純粋経験そのものになることによってはじめて、自己が能動的で自由な存在となることができる。
 そのように自己が発展完成することによって善が達成される。我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善ということになる。この時、人は「美」を具現化していくだろう。

 今まで西田の本は難解というイメージで敬遠してきたが、もったいないことをしてきた。心理療法に関しても援用できる部分が一杯で、もっといろいろと読むべきだと痛感した。

 ところで業務上、急に必要になって『インフォームド・コンセント―患者の選択』を読み返す。『Principles of Biomedical Ethics』の共著者でもあるビーチャムが関わっている一冊で、大作で立派な本だが、医師や患者を「生身の人間」として想定できていないところが大きな欠点である。「医師」という社会的役割は「生身の人間」によって担われていることを想定しない思考習慣が、「医療崩壊」を引き起こす一つの遠因になっている、と私は考えているが、これは大事なことなので、また明日以降にていねいに論じたい。