心のリハビリ中に終末期医療について考える

 知人でこのブログを読んでいる方から、「大丈夫か」との連絡。大丈夫です。お気遣いありがとう。先週はどうしても気分的にブログを書けませんでした。今週からはゆっくり気持ちを立て直して、ぼつぼつ書いていきます。

 忙しい中でもいろいろあった。
 まずは看護師対象に行っているセミナーの最終回があった。前の三回の記事は、「思春期」、「現代の家族」、「老いと死」とに。
 今回は事例検討と、その事例の中心問題に関するレクチャーを行った。終了後、大きな拍手をいただけて、苦労した甲斐があった。事例提供者の方からも、「自分のやっている仕事に根拠を与えられた気がして、明日から自信を持ってやっていけそうだ」と感想を頂いた。精神分析的な視点が、看護の現場において有用であるだけでなく、いかに患者と看護師の相互の成長につながっていく生きた知恵であるかということが実感をもって理解していただけたと思う。こういう機会を与えていただいたことに感謝。

 終末期医療についていろいろと考える必要があり、関連書を読む、ないしは読み返す。
 Bernard Lo『Resolving Ethical Dilemmas: A Guide For Clinicians』(lippincott Williams & Wiklins)、StanfordのEncyclopediaのエントリー『Voluntary Euthanasia』、立岩真也ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院)、松田道男『安楽に死にたい』(岩波書店)、梅原猛著『脳死は本当に人の死か』(PHP)、『脳死は、死でない。』(思文閣出版)を読んだ。
 梅原の『脳死は本当に人の死か』における主張は面白いので、ちょっとまとめておく。彼の意見の概略はこうだ。

 脳死を人の死とみなすのは問題があり、受け容れられない。それは死の定義を変えることであり、心臓死ととらえられてきた何十万年続いてきたであろう死の定義を変えることはのぞましくない。脳死という新しい概念は臓器移植を進めるために作り出された概念であり、いままでの死の概念を変えるほどのよほどの理由に値しない。
 しかし臓器移植自体は、臓器を受け取って命を長らえる人がいるのであれば、そのこと自体は望ましいことである。だから「脳死」と呼ばれる状態にある人は「生きている」とみなした上で、臓器移植は「生きている」人が、臓器を必要とする人にその臓器を与えてあげる「利他の行」をおこなうことだ、とみなして社会的に許容したらよいのではないか。

 こうした考えが端的に表れているのは、次の一節。

 「死体を提供するというよりは、たとえ0.00・・・1パーセントであっても生の可能性を人間救済のために捨てるというほうが、この菩薩行や愛の行為がより尊い光に輝くことになるのではないか」(p51)

 冒険的で面白い議論だ。たぶん脳死患者の家族は、目の前の患者の心肺も機能し体温もあるのだから、とてもその患者が「死んだ」とは思えないはずだ。それでも臓器移植のドナーになるのを許容するのは、梅原のような考えをもっているからだろう。