みのもんたの「派遣切り」の失業者に対する批判について

 今日、テレビをつけながら朝食の用意をしていたら、『朝ズバッ』という番組の中でみのもんたが吠えているのが耳に入ってきた。それは、本日朝刊のこの記事についてのトークだった。

希望ミスマッチ…派遣切り救済雇用 応募サッパリ
  全国の製造業で相次ぐ非正規社員の「派遣切り」。雇用対策として、さいたま市が発表した臨時職員100人の採用計画の応募が8人にとどまったことが明らかになったが、新規雇用を打ち出したほかの企業や自治体でも元派遣社員の応募が少数にすぎない実態が分かってきた。「派遣切り救済」と「人手不足解消」の一石二鳥を狙った企業や自治体は肩すかしを食った格好となっている。(産経新聞)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/214052/

 「応募サッパリ」とわざわざカタカナで書くところに隠された意図を感じる記事であるが、みのもんたはこの記事について、「仕事があるんだから、失業者は仕事を選んでいないで何でもいいからやらないと。それなのに、どうしてやらないのか。まったく甘えている」と厳しい口調で批判していた。

 みのもんたの言い分は正しい。生活が苦しいにもかかわらず、理由をつけて仕事をしない失業者は確かに甘えている。しかし、甘えているのは彼らだけではない。程度の差こそあれ、誰もが甘えているのである。そして、みのもんたも甘えている。彼は司会者という立場に甘えているのだ。だから単純化した理解に基づいた批判をして臆するところがない。
 問題は、彼がそのことに気がついていないことにある。自分の甘えを棚に上げて、人の甘えを批判しても、それは人の変化を生み出しはしない。みのもんたの発言は正しくとも、問題解決に役立たないのは、そのためだ。たとえばアルコール依存症の人に「とにかく、酒をやめろ」と声を荒げてやめさせようとする家族や、ひきこもりの子どもに、「学校行け」、「仕事しろ」と怒鳴りつける父親と同じパターンである。そうした意見は間違いなく正しい。しかし正しいことを言ったからといって、問題の解決につながりはしない。それどころか、問題をより解決困難にしてしまうだけだ。そうした患者の問題を解決しようとするならば、まず治療者が自分の甘えを認めることが必要となる。そうすることによって、患者が甘えざるをえなくなった事情と苦しみを治療者が共感的に受けとめることができるようになり、結果的に、患者の発展的な自己がゆっくりと育つことも可能にしていくことになる。
 こうした精神療法の知恵を援用して言うならば、みのもんたが失業者のミスマッチ問題の解決に少しでも役立とうとするならば、彼が言うべきだったのは、「失業者は仕事をどうしてやらないのか」といった批判文ではなく、「仕事をどうしてやれないのだろう」と自らに問いかける疑問文であったはずだ。そうした疑問は、視聴者の中に生産的な思考を引き起こしていくポテンシャルを持っており、失業者に対する共感的な心理的受け皿を拡大することにもつながり、間接的に失業者に力を与えることも期待できる。
 酒場談義で溜飲を下げることが全く無意味だとは思わないが、彼の発言の社会的影響力の大きさを考えれば、もう少し謙虚さと思慮深さが欲しい気がする。とはいえテレビのパーソナリティという職業は、自分のパーソナリティを売り物にしているわけだから、自分の商品価値を高めるためには、多数意見の情緒にフィットするような考えを単純化して歯切れ良くいうことを習慣にするほかないのかもしれないが。