フロイトS. Freud著『想起・反復・徹底操作』を読む(2)


 昨日要約した『想起・反復・徹底操作』(フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論所収)について、気づいたことなど、断片的にだがまとめておく

 まず訳文に「操作」という言葉が多用されていることについて。この言葉からは、患者の主体性を尊重せず、治療者が患者を「操作」することをフロイトが是認しているような印象を受けてしまう。しかし『フロイト郵便』の訳を信頼するとすれば、原文にない「操作」という言葉が小此木先生の訳で多量に組み込まれたようだ。
 こうなったのは二つの可能性がある。一つはフロイトの原文には、患者を操作しようとする彼の姿勢が端々に現れていて、それをくみ取った小此木氏が「操作」と補って意訳した可能性。もう一つは訳本の出版年である1969年時点では小此木氏が自我心理学に同一化していたため、医学モデルを範にとった自我心理学の影響を受けて、「操作」と訳しすぎてしまった可能性。
 そこでフロイトの論文の全体から受ける印象だが、それを読む限りでは、操作という側面よりも、患者が主体的に抵抗を乗り越えていくことの大切さが主軸に置かれており、操作主義的な側面は強くない印象を受ける。これは英語版(Standard Edition XII所載)でも同様である。だから「操作」という言葉が多用されているのは日本語版だけのことであり、このことは主に小此木氏の当時の治療観の影響を受けていると考えるべきだ。
 フロイトは「操作」とはみていなかった、と考えていいだろう。あくまで患者の主体性を尊重し、それが変化を起こすまで「待つ」ことが大切だと述べていることからも、そう考えてよいはずだ。
 だから多くの論者が述べているように「徹底操作」という訳語は誤訳である。この訳語では治療者が「操作」すると読めてしまう。しかしこの言葉の主語は本来患者であり、患者が「やり通すこと」がワークスルーの本質である。それに対して治療者について言えば、患者の主体的なワークスルーへの取り組みを前にして、ひたすら「待つ」、あるいは見守ることが、治療者のもっとも重要な仕事なのだと、フロイトはのべているのである。

 さらに明日へ続く。