フロイトS. Freud著『想起・反復・徹底操作』を読む(3)

 一昨日から、フロイトの『想起、反復、徹底操作』(人文書院フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論』所収)をとりあげている。1914年のこの論文でフロイトが考えていた治療図式は、患者が行動として反復している内的体験を、言語化して意識化すればその反復がとまる、というものであった。
 あらためて整理しておくと、次のようになる。まず「無意識」にとどまっている心的内容がある。それは行動として反復される。普段の生活の中でも反復は生じているが、分析治療の中では転移としてさらに強調されて出現することになる。これが分析治療の優位点である。転移を通じて確認することができる反復について、分析家は解釈を行う。これを繰り返す中で、無意識は意識化され、想起されていく。反復から想起へと変化することをワークスルーする中で、患者は成長する。こんな図式であった。
 しかし論文の全体を読んでみると、フロイトはかなり患者の主体的な変化を重視していた、ということがよくわかる。あくまで治療者は、患者の抵抗しているところに注意を促すことに専心し、患者自身がその困難を遂行していくことを「待つ」ことが大切なのだと、強調している。

 ここで描かれるような治療者の態度は、「フロイト的治療態度」とくくられる。しかし、その言葉で浮かぶ「禁欲的」、「受身的」、「中立的」、「blank screen」といったイメージとは異なり、この論文でフロイトが描き出している治療者の姿は、患者が治療者に投影してくる感情を根気よく受け止め、患者が変化するのをねばり強く見守る治療者の姿である。こうした態度は、ただ「受身的」であるというよりも、「能動的」に受けいれようとしている態度だと呼ぶほうが正確ではないか。また客観的な立場から観察する科学者的なイメージよりも、決して手は出しはしないけれども、はらはらしながら子どもが成長していくことを見守る、そんな親のイメージが浮かぶ。
 そうした多様な側面を含んでいたはずの治療態度が、なぜ「禁欲原則」「中立性」といった言葉で代表されるようになっていったのか。その点を考えるため、「禁欲原則」を提示した1918年の論文『精神分析療法の道』(人文書院フロイト著作集 第9巻 技法・症例篇』所収)へと読み移っていく。

 いましばらく、このテーマの思考を続ける。