フロイトSigmund Freud著『想起・反復・徹底操作』を読む

 自律autonomy、あるいは「患者の主体性」について考える中で、フロイトの考えを確認したくなり、『想起・反復・徹底操作』Erinnern,Wiederhoken undDurcharbeiten 1914を再読。今回は『フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論 (6)人文書院(1969年初版)に所収されている小此木啓吾氏の訳文を用いて、その論旨を追っていく。なおこの版の訳については、『フロイト郵便』というホームページで検討がなされ、詳細な正誤表がアップされている。
『想起・反復・徹底操作』正誤表
(この正誤表は大変、誠実な仕事である。ドイツ語を十分に解さない私にとっては、とてもありがたい資料だ。この管理人(精神科医)の方は、きっと患者さんに対しても誠実な治療をなさっている方なのだろう。感謝。)

 さてこの論文が発表された1914年について時代的な把握をしておくと、まずフロイトの著作でいえば『トーテムとタブー』が1913年、『ナルシシズムについて』が1914年。社会的には、第一次世界大戦が始まった年である。この年の周辺の刊行物は、1907年にベルグソン創造的進化』、1910年E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』、1911年フランツ・ブレンターノ『心的現象の分類について』、1912年トーマス・マンヴェニスに死す』、1915年カフカ変身』、1916年がアインシュタイン相対性理論」といった時代。

 さて、この論文でフロイト精神分析の技法に関する歴史的考察から論を起こしている。まず催眠については以下のように説明する。

 当初のブロイアーの浄化療法の段階では、症状形成の契機を直接問題にし、そのときの状況で惹起されたさまざまな心理過程(無意識過程)を意識活動によって完結させるために、終始それを再現する努力を続けることがその主眼であった。患者を催眠状態に置くことによって、過去を想起させ感情を発散abreagierenさせることこそ、その当時の操作の目標であった。(p49)

 治療者が患者を催眠状態に置き、抑圧された感情が発散(除反応)されると回復する、という治療機序を想定した「催眠浄化法」の段階の説明である。次に「前額法」の段階あたりの説明。

 その後催眠術を放棄するようになってからは、被分析者が自由連想法によって思い浮かべたことの中から、彼が何を想起することができないかを推定せねばならない、という技法上の課題が生まれた。分析医は、解釈の仕事Deutungsarbeitによって、そしてその解釈の結果を患者に話してきかせることMittenilung(解釈の投与)によって、抵抗を回避しようというのであった。(p49)

 
 このあたりで、想起されない心的内容が重要であることは認めつつも、想起させまいとしている心の「抵抗」を扱うことのほうが、まず重要だと考えるようになっていく。そして、この抵抗を克服するために「解釈」が有用だと考えている。でも、この時点では、

症状形成の状況にさかのぼり、発病契機の背景となった諸状況に焦点を合わせる操作は以前のまま行われていた。(p49)

と抑圧された感情の発散を重視した視点からまだ自由ではなかったと述べる。しかしその後、力点の移動はさらに進んで、

・・・特定の契機や問題に焦点を合わせることを止め、被分析者のその時その時の精神の表層を研究し、解釈技術Deutungskunstの実施にたいして現われる抵抗を認識して、それを患者に自覚させるために逆にこの解釈技術そのものを活用する・・・(p49)

ことへと展開していく。この中で「自由連想法」が確立することになった。そして解釈を通じて、抵抗が乗り越えられると

・・・しばしば患者は、なんら努力することなく、忘れられていた状況や関連を話すようになる・・・(p49)

 ということになって、治療は成功!、というわけだ。

 このあとフロイトは隠蔽記憶についての解説を行うが、その中で、体験を言語化することの意義について触れていく。

きわめて重要な体験のうちで特殊な領域のもの、幼児時代のごく初期に起こったもので、その当時は(幼児の自我に)理解されることもなしにただ体験されただけであったが、(P51)(ここまで小此木訳)・・・事後的に理解し解釈することができるようになった体験に関していえば、記憶が呼び覚まされることはほとんどない。(ここは『フロイト郵便』訳)

 この点について、フロイトはさらに詳しく論じる。言葉にされない抑圧された心的内容は行為に反復的にあらわされるばかりであって、それは記憶として再生されることはないのだという。

・・・被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「想い出す」erinernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに、(行動的に)反復しwiederholenているのである。(p52)

 なおフロイトはこの反復は、分析家への転移として現れるだけでなく、「彼の生活の、それと同時に行われる他のすべての活動や関係においても」(p53)生じるのだといっている。
 以上のように、反復という現象を説明してから、フロイトは次に「何を反復するのか」と問う。フロイトによれば、反復されているものとは、

・・・抑圧されているものを源泉とし、その中から発して、すでに明らかに彼の本質の中に浸透しているもののすべて、彼が抑圧していたもの、実現しえないでいたさまざまの精神的態度、病的な性格特性などを反復するのである。いや、実際のところ、彼は分析治療のあいだに、症状のすべてを反復するのである。(p53)

 患者の内的世界すべてが反復されているのだとすれば、反復されたものを意識化していくことによって、患者の内的世界が言語化していけることになる。

 彼の病気を一つの(過去的な)歴史的事態としてではなく、一つの(現在的な)現実の力として操作すべきことを明らかにしたのである。(p53)

 しかし現実に現れるように展開させるわけだから、結果的に病状が一時的に悪化することになる。それでも

患者は自分の病気に現われたさまざまの現象に、注意をおこたらない勇気を持たなければならない。(p54)

 この「勇気」という言葉に注目したい。勇気を持って、「彼の今後の人生にとって貴重なものがそこ(病気)から取り出されねばならない」(フロイト郵便、正誤表より)というのである。たとえ苦しい道であっても、見たくないものを意識化していく道を歩むことによって人生が豊かになる、とフロイトは信じているのだ。
 行動として反復するのでなく、意識化していくことが重要だと考える立場から、フロイトは行動化の禁止が必要だと述べる。

 治療の継続中は生活上の重要な決定を下さないこと、たとえば職業を決定しないこと、決定的な愛情対象を選び出さないこと、むしろ、これら一切の意図の実現は治癒の時まで待つという義務を負わせることがもっとも良いのである。(p55)

 しかしフロイトは行動化を完全に禁止すべきだと教条的に述べているわけではない。本質的な問題でなければ、患者の行動化もそっと見ておく、ことが大切だと述べている。

人間というのは損害を受けたり自分自身の経験を通じたりしてのみ賢明になることができるものだ、ということを忘れるものではない。(p55)

 しかしそれでもフロイトは、精神分析の価値を大切にする立場を崩さない。

 患者の反復強迫を制御し、これを記憶想起を起こす手がかりとなす中心的な方法は、転移の操作である。われわれは反復強迫の権利を承認し、それをある特定の領域内で、自由に発現させておくことによって、それを無害なものに、いや、むしろ有用なものにするのである。(p56)

 こうした理解は「(起源)神経症gemeine Neurose」が「転移神経症」に置き換わり、転移を解釈することによって抑圧された心的体験の言語化がうながされ、症状が消失するという治療機序に基づくものだが、この際、「転移」について次のように描写するフロイトの観点が印象的である。

このようにして転移は、病気を健康な生活とのあいだの中間領域Zwischenreichをつくり出すのであり、前者から後者への移行はこの領域を通じて完成されるのである。

 ここまでで、治療機序についてのフロイトの考えが述べられたことになる。こうすっきり説明されると、抵抗を解釈すれば、すいすいと治療が進んでいくように思いがちだが、実際には順調に治療的展開が生じることはまずありえない。その点について注意を促すために、フロイトは最後に「徹底操作」について論じていく。
 彼はまず解釈によって「抵抗の克服」が生じるという図式を提示する。

抵抗の克服は、周知のように、分析医が被分析者が一度も認めたことのない抵抗を発見して患者に告げるということによって導入される(『フロイト郵便』)

 この図式に従って、初心者は、抵抗解釈を行えば抵抗がなくなる、と考えがちだが実際はそうではない。それはあくまで導入にすぎず、本当に変化していくためには時間が必要なのだ、と述べる。

 われわれは今や患者に知られるにいたった抵抗をさらに熟知させるために、その抵抗を徹底操作しdurcharbeiten、抵抗に逆らって精神分析の基本規則による操作(自由連想法)を続けながらそれを克服するためには、患者に時を与えなければならない

 だから分析家が行うべき仕事は、「待つ」ことなのだと述べる。

 その際、分析医としては、ただ時のくるまで待つこと、避けることのできない、しかしまた促進することもできない分析の経過をその流れるに任せておくこと以外には何もしてはならない。(p57)

 そしてこの過程を経ていないために、催眠が「なんの影響力も持たないで終わった」と、催眠に対する否定的評価を与えてこの論文は終わる。

 以上が要約だが、ずいぶん長くなったこともあり、私が考えたい「主体性」の問題は項を改めて明日にアップする予定。