『鶴光のオールナイトニッポン』復活に寄せて

 思わずエントリー。
笑福亭鶴光オールナイトニッポン』が一夜限りの復活と。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090211-00000000-oric-ent
 私は小学校までは関西地方で育ったが、中学からは遠く離れた地方の学校に入学し、そこの寮で生活した。慣れ親しんだカルチャーから離れて、習慣も言葉のアクセントも全く異なる社会の中へ放り込まれた当時の僕は、新しい生活の中で新しい友人たちに囲まれて楽しい日々を送っている、のだと思っていた。しかしいま振り返れば、そう思うしかなかった、ということがわかる。当時経験していた「楽しさ」は、故郷を離れた悲しみを否認することで、ようやく平衡を保つことができるほどの危うさを孕んだものだった。
 たとえば当時の僕は、中学生には決して安価とはいえない、故郷の地域の航空写真集を手に入れて毎日その写真ばかり眺めていた。そして本の上ではわずか2mmほどの太さにしかならない実家から小学校までの通学路を、あるいは親友の家へと駆けていった道を、飽きもせず何度も何度も人差し指でなぞっては、まだ「子ども」だった頃の記憶を想起していた。根こそぎになった自分の心の平衡を保つために、本当に必死だったのだ。
 中学・高校の6年間を過ごしたその学校は、男子校だった。僕は寮生活だったから、授業以外の時間でも女の子に会う機会もなかった。性に目覚めつつあった僕や同級生たちは、自分の中にわきおこるやっかいな性欲というものに対してうまく距離をとれずにいたから、自己というフィルターを通して性に対峙することができず、ただ巷に溢れるエロ本のような猥雑で露骨な形でしか表現できなかった。そして声高に自らのセックスを開示する友人の猥談に、ぎこちない態度をとりながらも、その気分にあわせて大笑するほかなかった。いわば、皆が躁的防衛を用いて、自分を守ろうとしていたのだ。そして僕たちは、それ以外のオプションを持ち合わせていなかった。
 寮の消灯時間は、23時だった。思春期の少年にはその時刻は早すぎたから、暗い廊下を見回る寮の舎監の足音を意識しながら、暗闇の中でいつも深夜ラジオを遅くまで聴いていた。平日だと12時過ぎには就眠していたが、土曜日だけは夜更かししてラジオに耳を澄ませた。土曜の深夜に流れていたのが、『笑福亭鶴光オールナイトニッポン』だった。毎週土曜日の深夜1時過ぎまで布団の中で起きていて、番組の序盤をまず聴き、あとは120分テープをいれたカセットデッキの赤い録音ボタンを押して、眠りにつくのが常だった。
 当時のリスナーであれば当然ご存じのことだが、『鶴光のオールナイトニッポン』は卑猥なネタにあふれた番組だった。リスナーの投稿をもとにした鶴光が繰り出す艶笑譚は、決して洗練されたものではなく、猥雑なものであった。でも洗練されていないものだったからこそ、自分にとっての切実さにふれることなく、性の後ろ暗さを外在化して処理するのに好都合なものだった。だから、オンエアの次の日には友人達と、番組中のネタを話題にして哄笑することが多かった。
 でも一方では、自分たちの性を安っぽく扱っている気がして不安でもあったように思う。だから哄笑した後に、なぜだか残る苦い思いにうまく対処できていなかった。でも、それでも僕たちにはそのオプションしかなかったのだ。
 ただ今おもうと、あの番組は僕にとって自分の性を守るためのツール、というだけでもなかったように思う。小学生の頃、関西のローカル番組でなじんでいた笑福亭鶴光が懐かしかったのだ。だから僕は、友人達とは異なる思いをあの番組に抱いていた。いわば幼い日々の僕と大人の私の世界をつなぐ一つの窓として見ていたのだと思う。
 でも、復活の番組は聴かないだろう。『オールナイトニッポン』のなつかしいテーマ曲『Bittersweet Samba』は甘い追憶の対象になっても、あの隠微な鶴光の猥談は僕にとってはノスタルジーの対象にはなり得ない。なぜなら身体の中からわき起こる性の蠢動に圧倒される中で、自分のウェットな感性を半ば否認することで乗り越えるしかなかったあの中学時代の僕がよみがえってきて、苦い思いを抱かずには聴けそうもないからだ。