佐藤俊夫著『倫理学』を読む

 なぜだか佐藤俊夫著『倫理学』を読んだ。東京大学出版会、1960年刊。
 倫理学の初学者向けのテキストとして刊行された本のようだが、先日レビューを書いた永井均氏の本『倫理とは何か』とくらべると、いかにも教科書然とした一冊だ。永井氏の本が読者に内的混乱を起こすという意味で「哲学書」であるのに対し、佐藤氏の本は倫理学説の展開を世界史と思想史上に定位しようとした「哲学の教科書」だといえる。正直に言えばこの本の「教科書」の部分はあまり面白いものではない。しかし、この著者独自の視点が織り込まれた、第1章の「習俗」論、および第10章から第14章になると俄然面白くなる。

 たとえば、冒頭で著者は「反倫理的」に見える現代を「倫理的なる時代」だと呼ぶが、こうした逆説的表現を用いる理由を以下のように説明する。

 ・・・倫理は欠如態においてかえっていっそうあらわになるということである。・・・倫理への関心がたかまるのは、倫理が荒廃し混乱し危機にひんするとき−むしろ反倫理的なるときである。(p1)

 人間や社会の倫理性に本来的に備わっている逆説的性格を、多少レトリカルではあるがうまく表現していてなかなかに面白い。

 著者の本領は、「習俗」についての考察で発揮される。10章冒頭では、習俗について以下のように説明する。

 ・・・個人と社会とが「習俗」のなかで素朴ながらに調和し、人間をめぐる事柄が習俗を頼りにすべてなんとか片がつくとき、そこではまだ倫理学というような学問はとくに必要とならない。ところが、個人の自覚がすすみ社会の進歩がめだってくるにつれて、どうにも習俗だけではまにあわなくなってくる。そこで、あらためて習俗が反省され吟味されることになるが、このとき倫理学という学問がはじめて必要となる。それゆえ最初の倫理学は、まずは習俗の学として出発するのである。ethica(倫理学)がethos(習俗)にその名を負うのは、じゅうぶんに理由のあることといわねばならぬ。(p137)

 著者はこの後「習俗」の倫理性を多面的に説明し、共同体的集落の秩序の安定化に役立っていたことを示していく。しかし自我意識の目覚めに伴って人が「習俗の外に出たい」、「自分らしく生きたい」と願いはじめる中で、人は習俗を内在化させざるをえず、そこに「道徳」が発生するのだという。しかし、この意味における「道徳」は危険をはらんだものであり、それでも道徳を大切にしようとするなら「自己の全てを賭ける覚悟がいる」(p164)のであり、その覚悟がつかないのであれば、道徳なんかにとりくまず、習俗を身につけるほうがよい、とも述べていく。

 また著者は、西洋倫理学説は、人間の幸福を目標とする「幸福説」Eudemonismと人格の完成を目標とする「完全説」Perfectionismの二つに呼び分けられていることを紹介した上で、現実を生きる人間は、この二つの間を揺れ動く中で自分の生き方を探っていくことになるが、この揺れ動きの中で自分の生き方を選択していくことそのものが「私の」道徳なのだ、とも主張する。
 そして、そうした選択を通して、次第に人は自分の「分を知る」ことになるが、一般には消極的意味において用いられる「分を知る」という言葉が、積極的な意味合いを獲得するようになった一例として、ソクラテスの「汝自らを知れ」を挙げている。著者によれば、この言葉は消極的な「諦観」を示す言葉ではなく、積極的な「覚悟」というニュアンスが込められた言葉であると言う。(p171)

 いろいろと断片的に主張を紹介したが、倫理にまつわる日常語の多義性を考察することを通じて、倫理の多面性を描き出していく手さばきは、和辻哲郎の著作を彷彿とさせるなかなか興味深い一冊だった。

 ところでどうでもいいことだが、この本の著者名「さとうとしお」をワープロ入力すると「砂糖と塩」に変換されてしまう。だから、「さとうとしおのりんりがく」は「砂糖と塩の倫理学」となる。うーむ、これはこれで読んでみたい気がする。

 最後に、いくつか落ち穂拾いを。
 まず第2章から。
 「かれは人である」という場合、「それは石である」という表現と違って、「かれ」は人間的な存在であるという含みがある。逆に「あいつは人間じゃねえ」という場合、その対象はヒトではあるが人ではない、といっていることになる。こうした言葉の用い方に現れている人間観について著者は、「人間のばあい、その存在(ある)がすでに当為(べし)を含んでいる」(p17)と説明している。

 あと第4章から、「弁証法」の語源について。

 プラトンの著作は周知のように対話篇と呼ばれる。・・・すなわち対話dialogosとは独白monologosにたいしてのことで、真理はひとりで考えこんでつかめるものではなく、自他の活溌な討論をとおしてはじめてつかめるものだ。・・・プラトンの対話篇は、西洋哲学史をつらぬくもっとも有力な方法のひとつといえる弁証法dialektikeの起源ということができる。dialektikeとは文字どおりにはdialogos(対話)のtekhne(技術)つまり対話術の意味である。(p36)