ザビーナ・シュピールラインの人生とユング(2)

 さて、シュピールラインとユングの関係について。今回もカロテヌート著『秘密のシンメトリー―ユング・シュピールライン・フロイト』などを参照しつつまとめていく。(特に断りのない引用はこの本から)
 シュピールラインは1904年にユングの治療を受け始めているが、1905年に退院してから医学部に入学を果たし、その後も論文を仕上げて卒業も果たすなど、社会適応という面では順調な回復を遂げたことは前回のエントリーで触れた。
 しかし内面的にはどのような展開が生じていたのだろうか。
 ユングは1900年、ブルグヘルツリ病院で勤務を始めている。そこでオイゲン・ブロイラーから紹介されてフロイトの著作に出会ったユングは、たちまちその魅力にとりつかれフロイト理論を積極的に擁護するようになった。そして1906年4月に二人の間で文通が始まった。フロイトは、名声高いブルグヘルツリ病院につとめる優秀な医師が、自分の理論を広めようとしてくれていることをとても喜び、二人は強く結びつくようになった。(ピーター・ゲイ著『フロイト〈1〉』p237)
 1906年10月23日の日付のある、シュピールラインの治療についてユングフロイトに相談した手紙に、ユングシュピールラインの関係の手がかりとなる記載がある。

私はごく最近の経験について除反応を行わなければなりません。私は、現在、あなたの方法で、あるヒステリーの患者の治療をしています。困難な症例、二十才になるロシア人女学生、病歴6年。(p426)

 この書き出しの後ユングは、シュピールラインの過去のエピソードを説明していく。3,4才頃に父親が兄の裸の尻をたたいているのをみて、強烈な印象をうけ、それ以後、自分が父親の手に排便をしたという考えを押さえることができなくなり、さらにその後「片方の踵を肛門に押しあて、排便すると同時にそれをこらえる」という強迫的な行動をとるようになったという。こういったシュピールラインの症状行動について明示されている点でも重要な手紙ではある。
 ただ、この手紙をざっと読む限りでは、とくに二人の関係を示す要素は含まれていないように見える。しかしブルーノ・ベテルハイム(p426)は、ユングがこの手紙の書き出しで「私はごく最近の経験について除反応を行わなければなりません」とのべていることに注目している。すなわち、この文はユングが「最近の経験について除反応を必要としており、しかもそれができないでいる」(pp426-427)状態にあることを示しており、その困難をフロイトに吐き出すことによって処理するほかなくなっていることを示している、というのだ。多分この時点でユングが彼女との治療関係で重大な情緒的問題に直面しており、その心的負荷ゆえにフロイトに吐き出さざるを得なくなったのだろう、とベテルハイムは推測している。実際、二人の関係についての残された資料からは、この頃に二人がかなり深い相互的な情緒的関係にあったことは確実であり、また肉体関係を持っていた可能性が高いと、一般に考えられている。
 一方そうしたスキャンダルを知る由もないフロイトは、この手紙へのユングへの返事で「この種の症例は、ひじょうに興味深い」(p246)と述べて、学問的に強い関心を示すだけである。そしてその後のユングとのやりとりでも、それ以上この問題について現れることはなく、このスキャンダルは表に出ることはなかった。
 ところが1909年になると、ユングシュピールラインの関係が次第に外部に知られることになる。まず、匿名の誰か(おそらくユングの妻であるエンマ)がシュピールラインの母親に、二人の関係を終わらせるように手紙を送ったことが、事態の露見の端緒となった。事態を知った母親は、ユングに対して手紙を書いた。その手紙はシュピールラインによれば、次のような中身だった。

 私の母は彼に感動的な手紙を書きました。あなたは私の娘を救ってくれた、今になって娘を堕落させたくはないでしょうと述べ、彼に友情の限界を越えないように懇願したのです。(p166)

 事態が露見したことを知ったユングは、母親へ次のような自己弁護的な返事を送る。

 私は、自分の感情を背後に押し込めておくのをやめたとき、彼女の医師から友人になりました。・・・男と女が友人として−そしてそれ以上の帰結を引き出す可能性がまったくなしに−いつまでも親しい交際を続けていくことなどできるものではありません。というのも、二人が愛情の帰結を引き出すのを妨げるものなどありはしないからです。他方、医師と患者は、いかに長い間であれ、いかに親密な事柄についても話し合いを続けることができます。患者は自分が必要とするあらゆる愛情と配慮を医師に求めることができます。患者にはその権利があります。しかし医師は自分の限界を知っており、けっしてそれを越えないでしょう。というのは、彼はみずからの労苦に対し支払いを受けているからです。これによって医師は必要な制限を課されるのです。(pp436-437)

 そしてユングシュピールラインの母親に、過去の診察料がまだ支払われていないため、今から診察料を送るよう要求する。もし診察料を送ってもらえないようであれば、「友人」としてつきあうので、二人の関係の今後は「運命の手に委ねる」ことになる、と脅迫的に述べる。さらに最後にこう付け加える。

なお私の料金は診察一回につき10フランです(p437)

 このように事態が紛糾する中で、思いあまったシュピールラインは1909年5月30日、フロイトに面会を申し出る手紙を送った。その手紙を不審に思ったフロイトは、ユングにこの件について訊ねる手紙を送り、ほどなく受け取ったユングからの返事を読んで、事態を把握した。
 そして6月8日にフロイトは彼女に返信を送った。そこでフロイトユングのことを「無思慮あるいは卑劣な行為のできる人物ではないと考え」(p204)ていることを伝え、両者の関係が紛糾したことについて「あなたに自己吟味を求めたいと思います」(p205)とシュピールラインにも原因があるのだと暗に責める内容の書面を送った。
 それに対してシュピールラインは、ユングとの関係についてかなり赤裸々に説明した長文の手紙をフロイトに返す。
 一方ユングフロイトに連絡を取った。ユングの6月21日付の手紙では、「私のしたことは不埒な行為でした」(p438)と謝罪するとともに、シュピールラインへあることを伝える手紙を書いてほしいとフロイトに依頼している。そのあることとは、ユングフロイトに全てを告白したこと、そして両親へ非礼な手紙を書いたことを後悔していること、の二点であった。それを受けてフロイトは6月24日に、彼が当初抱いていた誤解を詫びる手紙をシュピールラインに送った。これで一旦、フロイトシュピールラインとの間での書状の往復は途絶えることになる。
 その年の8月20日、米国クラーク大学からの招待を受けて訪米するため、フロイトブレーメンへ向かった。そこでフロイトは事件以後初めてユングに再会することになった。そこにはフェレンツィもいた。出航を待つ間に三人で過ごしたが、夕食中ユングの眼前でフロイトは失神発作を起こしてしまう。(『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)』p225)
 フロイトは後になって、このエピソードのことをユングに語った。(『ユング自伝(1)』p225)失神の前にユングが死体の話を長く続けていたことをフロイトは取り上げ、それはフロイトに対する「死の願望」の現れであったと解釈している。すなわち彼は、ユングの中に父親殺しの願望を読み取り、それをしつこく見せつけられたため失神したのだ、という理解を提示しているわけだ。
 しかし、ベテルハイム(p441)はそうしたユングへの感情の背後に、シュピールラインとのスキャンダルによってユングに寄せていた信頼が揺るがされ、ユングシュピールラインを裏切ったようにフロイトをも裏切るのではないか、という不安が伏在していたのではないか、と推測している。

 今日はここまで。まだ続きます。しかしこのまま進んで、フロイトの『精神分析療法の道』に戻れるのだろうか?