ザビーナ・シュピールラインの人生とユング(3)

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 その後、アメリカ行きの船上で、フロイトユングフェレンツィは互いに夢分析を行うが、そこでユングフロイトの関係に軋みが生じ始めた。フロイトユングの行う解釈に対して、「私自身を他人に分析させることはできない、私の権威が危うくなるから」と拒絶するように言った、という。いわば父親たるフロイトと、フロイトを父としながら、いずれフロイト心理的に殺害せねばならないユングとのエディパルな心理的対立が浮かびあがりはじめたのだ。
 そしてこの葛藤は、「リビドー」を性的なエネルギーのみに限定して用いようとするフロイトと、それを人間に備わる全体的なエネルギーとしてみなそうとするユングの考えの理論的対立として次第に表面化していく。 
 一方シュピールラインは、ユングの卑劣な態度にショックを受けながらも、それでもユングを愛し続ける。たとえばシュピールラインはつぎのように書いている。「私の母が介入し、彼と彼女との間で、次には彼と私の間で言い争いがあった。それでも私は彼と別れることができなかった」。さらにユングアメリカに滞在している1909年9月21日の日記でシュピールラインは、「(ユングシュピールラインが)幸福な時も不幸な時もお互いを支え合えるようにしてください、たとえ離れていても心は一つであるようにしてください、私たちが・・・「善と美」を目指す努力の中で違いに手を差しのべるようにしてください」と書いている。そしてユングの帰国後、「私は前より強くなり、講義の後で彼をつかまえた。最初、彼は逃げだそうとした。・・・私は彼を安心させ、こう言った−私はあなたを「面倒に巻き込む」つもりはなく、ただ今でもあなたを愛しているから来たのです・・・」(p27)と告白する。
 その後、ユングの指導のもと、論文作成に取り組む中で、シュピールラインのユングへの思いは高まり、あるファンタジーに支配されるようになっていく。ユングとの間で子どもを産み、その子をジークフリートと名付けて大切に育てたい、というものであった。ドイツの英雄であるジークフリートの名を借りたこの子どもは、当初は二人の現実の子どもを持ちたいという願望の所産でしかなかったが、そこに彼女の中の民族意識が仮託されていくようになる。すなわちアーリア人たるユングと、ユダヤ人であるシュピールラインの間に生まれたこの子が、二つの民族の統合として象徴的意味を持つことを期待していくようになり、そしてユングシュピールラインの共同制作物というべきが論文がジークフリートとしての意味合いを持つようになっていく。
 そんな中1910年には「・・・私たち二人の間にふたたび優しい愛情が戻ってきた」(p22)とシュピールラインは感じるようになっていく。これに対してユングは「また恋に陥ることがないよう常に用心していなければならない、私たちはお互いにとって危険な存在なのだ」(p22)とシュピールラインに伝えている。
 しかし第一論文『統合失調症の一症例の心理学的内容について』を書き上げ、そしてユングが「君は母親となるためではなく自由恋愛のために生まれてきた女性の一人だよ」(p65)と言ったことをきっかけに、シュピールラインの中で熱情に変化が生じた様子がうかがえる。その後、1911年1月19日には「彼は去ってしまった、これでいいのだ」と書いている。
 その後シュピールラインはチューリヒを離れ、モントルーで休暇を過ごした後、ミュンヘンへ向かい、第二論文『生成の原因としての破壊』を完成させてから、ウィーンで生活することを決めた。移住後はフロイトの水曜会に出席をし、精神分析協会の正式メンバーになるなどフロイトへ接近していく。一方フロイトは1911年11月12日のユングへの手紙の中で「(シュピールラインの)話は非常に知的で整然としていた」と好意的な印象を持ち、11月25日にシュピールラインは協会メンバーを前に「死の本能」に関する考えを報告したことについて、「シュピールライン嬢はたいへん感じがよく、私にもだんだん彼女が分かってきました」(p260)と書いている。
 1912年になるとシュピールラインはベルリンへ移り住み、そこでユダヤ人医師であるパウル・シェフテルと結婚する。その頃シュピールラインはさら精神分析に関心を寄せていく。フロイトもまた彼女への関心を高め、精神分析運動への参画を期待するようになっていく。1912年8月20日フロイトからシュピールラインへ送られた手紙では、ユングへの依存関係から自由にならせようとして、彼女に対して分析を行う計画を提案している。しかしシュピールラインは精神分析への関心を寄せながらも、ユングへの信頼も持ち続けていた。そしてフロイトユングの考えを統合することを通じて、象徴的にジークフリートを生み出したいと願うようになっていた。
 それに対してフロイトは1913年にシュピールラインへ送った手紙の中で「異民族の結合から救済者が誕生するというあなたの空想に対し、私はまったく共感を覚えません」(p209)ときわめて否定的な態度をとる。さらにシュピールラインの子どもが「筋金入りのシオニストに成長する」ことを期待する手紙を送ってもいる。
 ところがその前年の1912年では、フロイトはまだそれとは反対の考えにとどまっていた。その年の8月18日、フロイトがランクに出した手紙で「ΨA(精神分析)という土壌でユダヤ人と反ユダヤ主義者たちが融合する」夢を抱いていたことを述べている(『フロイト1』p274))ように、ユングへの信頼はまだ完全には崩れていなかった。その後1年で完全に異なる見解をシュピールラインに伝えるようになったのは、ユングフロイトの関係がこの1912年から13年の間で絶望的に悪化していたからだ。1912年にユングはリビドー論や幼児性欲の考えを捨て去り始めていた。そして11月末にミュンヘンユングとの議論の後、フロイトは二度目の失神発作を起こしており、さらに1913年7月ロンドンで行われた講演でユングは、自分の学説を初めて「分析心理学」と呼ぶようになった。このようにユングフロイトの関係の決裂が決定的になる中、1913年9月にシュピールラインは長女レナーテを出産する。
 一方、ユングは1913年12月8日にある夢を見る(『ユング自伝1』p257)。

 私は一人の見知らぬ茶色の膚の未開人と、淋しい岩山の風景の中にいた。・・・私はジークフリードの角笛が山々に鳴りわたるのを聞いた。そして、私はわれわれは彼を殺さねばならないと知っていた。
 ・・・すると、ジークフリードが、昇ってきた太陽の最初の光の中に、山の頂上に高く姿を現わした。・・・角を曲がろうとするとき、われわれは彼を撃った。彼はとびおち、撃たれて死んだ。
 このように偉大で美しいものを破壊したための嫌悪感と悲しみに満たされながら、殺人が露見するかもしれぬという恐れに駆り立てられ、逃げ去ろうとした。しかし、どしゃぶりの雨がふり始め、それは死人のすべての痕跡をぬぐい去ってしまうと知った。私は露見する危険から逃がれた。私の命は続くだろう。しかし、耐え難い罪悪感が残された。(p257)

 ユングは、この夢を次のように理解している。この夢のジークフリートは、ドイツ人が持っている「自分の意志を英雄的に押しつけ、自分の道をひら」(『ユング自伝1』p258)こうとする態度の象徴であることがわかった。そして自分もそれに同一化していたことに気がついた。しかしその態度がもはや適当でなく「この同一視と私の英雄的な理想主義は棄てさらねばならな」(同書、p258)いと感じて、ジークフリートを殺した。このようにユングは解釈している。確かにそういう理解も成り立ちはするだろう。しかしこの時期に「ジークフリート」の夢を見て、シュピールラインのことを想い出さないほうがおかしいように感じる。この夢は、シュピールラインの子どもであるジークフリートを殺したいという願望と、しかしそうした願望を抱くことに対する恐れと罪悪感とが象徴的に現れた夢だと解するべきではないだろうか。
 その後も、ユングフロイトの関係はさらに悪化し、ユングは1914年4月20日国際精神分析協会の会長の辞職に追い込まれる。そしてフロイトが7月に発表した『精神分析運動史』の中でユングへの批判を行った後、フロイトアブラハムに手紙を送る。「これでやっとわれわれは連中をお払い箱にしたわけです。粗暴な教祖ユングと、彼にぺこぺこする受け売り屋(Nachbeter)どもを」(ピーター・ゲイ著『フロイト1』、p286)。こうしてユングフロイトの関係は断絶した。

 続きます。