トクヴィル著『アメリカのデモクラシー』を読む

 ここのところ、ちゃんとした記事を書こうとしすぎている気がしてきた。
 もっと気楽に思いつきを書いて、発想をふくらませるエネルギーを得ることがブログの目的だったのだから、しばらくお気楽モードの記事に戻すことにします。

 ということで、現在アメリカについて考え中。
 有賀夏紀著『アメリカの20世紀』(よくまとまっていて好著)、『アメリカの歴史』、仲正昌樹著『集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険』(アメリカ思想を総覧するのに役立つ好著。この著者の情報処理能力はきわめて高く、要注目)などに目を通しつつ、現在トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫)を熟読中。1835年刊。岩波文庫版は2005年刊。トクヴィル1831年から1832年にかけて米国を調査旅行した際の報告。19世紀の米国社会の状況と、当時の欧州知識人のアメリカ観がよくわかるこの本、めちゃくちゃ面白い。なにより訳が良い。リズムがいいから、ぐいぐいと読まされる。
 
 たとえば、デモクラシーや集権制についていろいろ考えさせられる。

 だが行政の集権は、これに服する国民を無気力にするだけだと思う。なぜなら、行政の集権には国民の公共精神を絶えず減退させる傾向があると考えるからである。たしかに、行政の集権はあるとき、ある特定の場所に、国の活用しうる全力を結集することには成功する。だがこの力を再生産するには有害である。行政の集権は戦いの日には国を勝利に導くが、長い間には国力を弱める。一人の人間の一時的栄光に大いに与ることはあっても、一国の人民の持続的繁栄には貢献しえない。(第一巻上p139)

 とか、

 集権制は人間の外的行為をたやすくある特定の画一的形式に従わせることができ、人はやがてそれによって処理される個々の事柄とは別に、画一性それ自体を愛するようになる。・・・一言でいえば、それ(集権制)が長じているのは、何かを妨げることであって、何かをなすことではない。(第一巻上p144)

 といった記述。大きな政府と小さな政府についての現代の議論を考える上で役立ちそうだ。
 それから細かいところでも、うならされる考察が多い。

・・・社会の力は何事をもなしうるがゆえに、時として賢明さと先見の明に欠けることがある。そこにこそ危険があるのだ。社会がいつか滅びる恐れがあるとすれば、原因はその力自体にあり、弱さのためではない。(第1巻上p142)

 や、

・・・情念と無知、さらにありとあらゆる間違った観念の異様なごたまぜの観を呈するような国民があるが、そうした国民は災厄の原因に自分自身気がつくまい。彼らは惨禍に苦しみながら、惨禍の正体を知らないのである。(第一巻下、p102)

 とか、

ワシントンは・・・次のような見事な正論を表明していた。「他国民に対する好悪の感情にいつも囚われる国民は、ある意味で奴隷になる。そうした国民は憎悪または愛情の奴隷なのである。」(第一巻下p106)

 なんて、箴言集に入れたくなるような文だし。
 また当時のアメリカに対する評の中に辛辣なものがある。読んでいて「こんなことまで言っていいのか〜」とびびってしまうこともある。たとえば、

アメリカ人は会話の妙を知らぬが、議論はする。語るのではなく、主張するのである。(第一巻下、p133)

合衆国を支配する権力は、そのようにして自分がからかわれるのをまるで喜ばない。最小の非難にも傷つき、僅かな棘を含んだ真実にも怒り狂う。言葉遣いから身持ちのよさに至るまで、ともかく誉めねばならぬ。・・・したがって多数者は絶えざる自画自賛の中に生きている。(第一巻下p156)

 いやあ、昔のこととは言え、こんなの読んだらアメリカの人怒るぞ。いいのか、トクヴィル

 でもトクヴィルが、デモクラシーの価値を深く信じているのも印象的だ。

民主政治は国民にもっとも有能な政府を提供するものではない。だがそれは、もっとも有能な政府がしばしばつくり出しえぬものをもたらす。社会全体に倦むことのない活動力、溢れるばかりの力とエネルギー行き渡らせるのである。こうした活力は民主政治なしに決して存在せず、それこそが、少しでも環境に恵まれれば、驚くべき成果を産む可能性を持っている。この点にこそ民主主義の真の利点がある。(p136)

 しかしトクヴィルは1805年生まれの人だから、この本は30才で書いたことになる。その年齢で、この思索の深さと広さとは驚きだ。うーん、トクヴィル恐るべし。