トクヴィル著『アメリカのデモクラシー』を読む(2)

 今日もまた『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫)を読み進める。松本礼二氏の訳がすばらしいこともあって、非常に面白い。興味深い点を引用していく。

 トクヴィルは、アリストクラシーからデモクラシーへ進むのが歴史的必然だとみなしており、デモクラシーこそが人間の本性に調和した政治体制だという点で、高く評価している。
 彼はデモクラシーを永続させるために必要な要素を三つあげている。

 諸個人のつくる社会と同様、諸国民の結合にとっても、永続を可能にする主要な要因は三つある。参加者が賢明であり、個々では弱く、そして数が少ないことである。(第一巻下、p359)

 ここで「個々の弱さ」を挙げている点が面白い。デモクラシーを支えるために不可欠な精神的土壌の一つとして、構成員一人一人が自分の弱さを自覚できていなくてはならないと考えているわけだ。
 これは大切だ。精神療法でも、このことが主題になることがよくある。
 弱さを自覚することの重要性は、第二巻下でも語られる。

境遇の平等は人々に独立を意識させると同時に、その無力をも教える。彼らは自由だが、無数の偶発事に見舞われる。・・・誰もが同じ弱さと同じ危険にさらされていると感じ、彼らの利害と共感が必要に応じて相互に扶助しあうことを法とするのである。(第二巻下、p35)

 うーむ、この主張なんか、ロールズの『正義論』が想起される。

 それから弱者の嫉妬についても語るトクヴィル

 弱者は強者の正義と論理を滅多に信用しない。成長の遅い州は、だから勢いのよい州に対して不信と嫉妬の視線を投げかける。ここから連邦の一部に見られる深刻な不安と漠然たる焦燥感が生じ、それは連邦の他の部分を満足感と自信が支配しているのと対照的である。(第一巻下p366)

 嫉妬や羨望がいかに民主制にとって危険なものかをトクヴィルは意識しているが、これは現在の発展途上国と先進国との関係でも同様の問題だ。

 第二巻では、デモクラシーが人の心や行動に与えた影響について論じられる。
 第二巻の冒頭は非常に有名な部分。まずアメリカでは、国民が哲学に関心を持たないことを指摘する。そのかわりアメリカの人たちは、過去や権威、形式などから自由であり、自分の中に真理を求めようとする合理的な行動様式があるのだという。

 体系の精神、習慣のくびきから脱し、家の教えや階級の意見、いや、ある程度までは、国民の偏見にもとらわれない。伝統は一つの情報に過ぎぬとみなし、今ある事実は他のよりよいやり方をとるための役に立つ研究材料としか考えない。自分の手で、自分自身の中にのみ事物の理由を求め、手段に拘泥せずに結果に向かい、形式を超えて根底に迫る。・・・アメリカ人がデカルトの作品を全然読まないのは、社会状態が彼らを思弁的研究から遠ざけるからであり、その教えに従うのは、同じ社会状態がこれを採用する方向に自然に彼らの精神を向かわせるからである。(第二巻上pp17-18)

 合理主義的な思考を知らずとも、合理的な行動をとることができるアメリカの人たちの、いわば生活の知恵というものを評価している。こうした思考習慣がプラグマティズムの母胎になったということか。
 そして哲学者が全体的な世界像を確立しようとする野心を持っている場合があるが、その野心は現実離れしているとトクヴィルは考えている。いかに偉大な哲学者でも、一人で全てを考えようと思ってもできるはずはなく、自分が明らかにしたよりもより多くの真理を前提とせねばならない。そして、そのほうが望ましいとだいう。なぜなら、すべての根拠を自分で確認しようとすれば、いわば虻蜂取らずになって、結局何も得られないことになりかねないからだという。

 そのような作業は精神を不断の動揺の中におき、そのためいかなる真理をも深く究めることができず、なんらかの確信に達して精神の安定を得ることが不可能になる。その人の知性はなにものにも依存しないが、同時に脆弱であろう。・・・なるほど他人の言葉を信じてある意見を受け容れる人はすべてその精神を隷属させている。だがこれは自由の善用を可能ならしめる健全な従属である。(第二巻上pp28-29)

 このようにトクヴィルは、真理探究における社会的分業を是認している。
 またトクヴィルによれば、デモクラシーが進むと人は個人主義に陥るため、(トクヴィル個人主義という言葉をネガティブに用いている)、それをふせぐために「結社」が必要だという。

 感情と思想があらたまり、心が広がり、人間精神が発展するのは、すべて人々相互の働きかけによってのみ起こる。このような行動が民主的諸国にほとんどないことを私はすでに示した。そこではだからこれを人為的につくらねばならない。そして、これは結社だけがよく為し得ることである。(pp.192-193)

 さらに、アメリカでは金を稼ぐこと自体が軽蔑されないのはなぜか、についても考えている。その理由を、誰もが働かないといけないから、金を稼ぐこと自体が軽蔑されることはない、としている。

 民主的国民には世襲の富が存在しないから、誰もが生きるために働くか、かつて働いていたかであり、あるいは働いた人の子として生まれている。労働の観念はだから、人間に必然で、自然かつ当然の条件として、人間精神にいたるところから生じる。
 これらの国民にあって、労働は不名誉でないばかりか名誉あるものとされる。・・・アメリカの金持ちがヨーロッパに押し寄せるのはこの労働の義務を免れるためである。そこに閑暇がまだ尊敬される貴族社会の残滓を見出すのである。(p260)

 またアメリカの女性の特徴について説明しているところもある。

 子供時代を過ぎて思春期を迎えるころ、ヨーロッパの娘たちは若々しい欲望に取り囲まれた中で子供のように初心であったり、天真爛漫に愛嬌を振りまいたりすることがよくあるものだが、アメリカの若い女性にそのような振る舞いはまずほとんど期待できない。(第二巻下p71)

 この記載が本当なら、きっとアメリカではヒステリーは少なかっただろう。
 それから父親の権威が低下することについても説明している。

デモクラシーにおいては、個人の独立は非常に大きくならざるを得ず、若者は早熟で、好きなことは制限できない。習慣は変わりやすく、世論はしばしば移ろいやすく、あるいは力がなく、父権は弱く夫権も絶対ではありえない。(p72)

 いままで、我が家で父権も夫権も弱いのは、どうしてだろうと思っていた。そうか、デモクラシーにも原因があるのか(笑)。
 一つ一つの主張には問題があるところも多いようだが、思考する対象がきわめて広汎であり、それを全体的に提示したところにこの著作のすばらしさがあるのだろう。