土居健郎著『臨床精神医学の方法』を読む

 
 まったく予期していなかった土居健郎先生の新刊である。タイトルは『臨床精神医学の方法』。2009年1月30日、岩崎学術出版社刊。ここ10年ほどの講演録を中心に集めた一冊である。出版を知るなりすぐ注文し、土居先生の新刊を手にできる幸せをかみしめつつ読み終えた。

 土居先生の著作は、私にとって一つの理想である。先生の言葉には、一片のてらいもなく、またけれんもない。硬質で無駄のない文体で綴られていく独創的な主張は、その内容の豊かさと論理の厳しさにおいて傑出している。こういう文章を書きたい、と今まで何度思ったことだろう。
 だから私は土居先生の本を、いつも書棚の一番の特等席に置いて、おりにふれ読み返すようにしている。特に『精神分析と精神病理』、『精神療法と精神分析』、そして『方法としての面接』は、どれも傍線と書き込みだらけになるまでに読み込んだ。書き手として、指導者としても、また理論家としても、本当に尊敬している先生だ。

 ただ、私がまだ初心の治療者であったころは、学会のプレコングレスなどで土居先生がお見せになっていた苛烈なまでの厳しさに違和感を抱いてもいた。聴衆としてフロアーの隅に座りながら、土居先生の厳しい指導を受けて立ち往生する症例呈示者を見て、震え上がるような思いとともに、どうしてそこまで厳しく批判しなくてはならないのか、と釈然としない思いを抱きながら聴いていたことを思い出す。

 今回のタイトルは『臨床精神医学の方法』である。このタイトルに、精神分析家というよりも、臨床精神科医という社会的役割を担いながら精神分析的思考を貫くことに意義を感じてこられた先生の思いが込められている。

 私は精神医学の臨床においてこそ精神分析のレーゾン・デートルが発揮されると思っているからだ。・・・しかし私が興味をもつ領域はまさに精神医学と精神分析が重ね合わさるところである。そしてそれこそ私にとって精神医学の臨床に他ならないのである。(p1)

 以前からこのブログでも何度も書いたが、私は精神分析が志向している価値を大切に考えて、精神科臨床にのぞんでいる。精神科医として広く医療に責任をもって関わる中ではじめてひりひりと伝わってくる情動的経験に自分をさらし続けることが、真に臨床的な精神科医になるために決定的に重要な要素だと信じているからだ。だから今回の土居先生の著作によって、私の仕事を深い部分で支えられたような気がして、とても嬉しい思いがした。
 
 それに土居先生の批判精神が健在なのが嬉しい。

 ・・・もちろん欧米人が依存をひどく嫌うことは百も承知している。彼らは大人はともかく子どもまでも依存させまいとするのであって、これこそまさに文化的偏見に他ならない。そんなわけで専門書にまでattachmentはよいがdependenceはよくないという議論が登場する。attachmentはふつう愛着と訳され、たしかにその意味で使われることが多いが、この語の本来の意味は「くっつく」ということで、感情は含まれていない。くっつくだけでは意味のある対象関係は生まれまい。(pp117-118)

 厳しいが正鵠をついた批判だと思う。
 この本には、土居先生の厳しい批判的姿勢の基盤を示唆する一節がある。

・・・ここで一言付け加えておきたいのは精神療法自体が本質的に道徳的な性格を持っていることについてである。・・・この点でフロイドがWahrhaftigkeit(いつも真実を語ること、正直)について述べていることは意味深長である。彼は「分析療法はWahrhaftigkeitに基いている」のであって、「分析療法の教育的効果とその倫理的価値の大半はそのことにある」と明言している。このWahrhaftigkeitが治療者としての単なる職業倫理を越え、治療者個人の人格的在り方を意味していることは明らかであると思う。(p90)

 ここではフロイトについて語られてはいるが、より重要なことは、土居先生自身が常にWahrhaftigkeitであろうとされてきた点にある。別の場所で土居先生は、次のように語られてもいる。

フロイト精神分析療法の効果というものがあるとすれば、倫理的な価値といってもよいが、結局治療者のWahrhaftigkeitによるんだといっている。フロイドの言ってることでおかしいこともあるけれど、これだけは本物だと私は思うね。・・・bewusstに関する限りは、彼は正直な人間だった。臨床の場で大事なことは自分のやっていることについて偽りがないということだろうなあ。(p190)

 この最後の部分の詠嘆に、Wahrhaftigkeitを貫くことの途方もない難しさについての土居先生の実感がこめられているように感じた。
 私たちは、つい他者の目を意識してしまう。また自己顕示欲からも自由ではない。それに怠けがちでもある。だから自分の意見に自信がない場合など、世間で名高い分析家や治療者の意見をそのまま取り入れて着飾ることへの誘惑にかられてしまう。でも本当にそうしてしまえば、よくよく自分の臨床に照らせば感じるはずの違和感に目を塞いでしまうことになる。そのとき私たちは、自分に嘘をついていることになる。土居先生はそのような自己欺瞞的な態度に潜む非道徳性に、どこまでも自覚的なのだ。
 そうした「正直さ」を大切にする態度は、土居先生の処女作から貫かれている。

 もし本書に多少でも独創的なところがあるとすれば、それらの問題を綜合的にとらえたことであるといえよう。本書は書き下ろしの随筆のように、いったん著者の頭を通過したものだけが書かれているのである。(『精神分析 (講談社学術文庫)』p10)

 半世紀以上前に書かれたこの『精神分析』でもそうだったように、今回の『臨床精神医学の方法』にも土居先生が納得できないことは一つも書かれていない。フロイトにおもねって自説を枉げたり、古沢先生に気兼ねして批判を避けるような真似は決してなさらない。その愚直なまでの「正直さ」は、単に一編の論文や一冊の著作だけにとどまるのでなく、先生が行ってこられた指導も治療も生き方も、全てがこの「正直」という価値で貫かれている。それがゆえに患者も、指導を受けた人も、本の読み手をも変化させていく力に満ちている。

 しかし精神分析の土壌がほとんどない日本で活動されてきた土居先生が、巨人フロイトや当時隆盛を極めていた自我心理学の主張に接する中で、自分の実感に「正直」であることを貫こうとすれば、自分に対する苛烈なまでの厳しさを必要としたにちがいない。厳しくしなければ、自分が挫けてしまうからだ。

 巻末に添えられた武蔵野病院の江口重幸先生と土居先生との対談の終わり際に、江口先生が土居先生の「正直さ」について、次のように尋ねる部分がある。

江口 時にそれは、私たち治療者とか医者にも、非常にはっきりとした言葉というか、ぐさりとくる言葉が返ってくることにもつながるのですが。おそらくそれは・・・(p193)

 この江口先生の質問が終わらないうちに、土居先生は独白めいた吐露をされる。

土居 それは、ある意味において、僕の職業病であるのかもしれない。一般の人を患者扱いするわけじゃないのだけれども、やはり職業病じゃないのかな。あんまりWahrhaftigkeitを一生懸命やっているとやはりよくないのかもしれない。

 ここでの土居先生の言葉には、ほとんどお見せにならない土居先生の迷いがあらわれている。「職業病」という言葉を用いた土居先生は、たぶん御自分の「職業」や役割というものを強く意識しておられたのであろうし、だからこそどこまでも強く、厳しい姿勢を保って踏ん張ってこられたのだろう。そして厳しさによって傷つく人がいることも認識し、気にされてもいたはずだ。ここでお見せになった迷いは、そうした思いから自然に溢れでたものだと理解する。
 しかし自らの厳しさで一番傷ついてこられたのは、きっと土居先生自身なのだ。強烈な役割意識の背後に存在しているであろう土居先生個人の哀しみに思いをはせるとき、よりいっそう土居先生の業績の偉大さに感嘆させられる。そしてその心的構図が読み取れないままに、ただ土居先生の厳しさに接して憤然とするばかりだった若き日の自分が、いかにつまらない水準で反応していたかを強く思い知らされる。

 今回の土居先生の著作は、精神科医として最善を尽くして臨床活動を続けていくことの大切さを再認識させられた一冊であった。深い励ましを与えてくれるこの本を刊行いただいた土居先生に、心から感謝したい。