村上春樹著『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』を読む
引き続きアメリカ関連。思想書に少し飽いたので、アメリカらしい文学を読んでみようと思ったものの、何にしようかとふと悩む。書棚を物色して、フォークナーとどちらにしようか迷ったが、結局フィッツジェラルドを読むことを決めた。
昔、といっても20年ほど前に読んだときには、彼の小説の良さがよくわからなかった。この年になると少しはわかるかも、と淡い期待を抱いて選んでみた。
が、彼の本に入る前に、横に置いてあった本のページをめくったら止まらなくなった。そこでそっちを先に読むことにした。村上春樹著『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』。1988年刊。手持ちの本は、中公文庫版で1991年刊。
この中の『「夜はやさし」の二つのヴァージョン』と『ゼルダ・フィッツジェラルドの短い伝記』は読ませる。村上春樹さんの小説に関する考え方が、かなり凝縮して提示されている点で重要だ。
印象に残った部分。まず『「夜はやさし」の二つのヴァージョン」から。
・・・結婚生活とは、根本においてはすべからく一種の精神治療行為であるとも思えるようになった。・・・志気を失った人生がどれほど辛いものかということも切実に感じられるようになった。要するに、僕は中年の域に足を踏み入れようとしているのである。(p130)
もう一つ、ゼルダ・フィッツジェラルドのバレエに関する考えについての、彼のコメント。
それは最初から実現することの不可能な試みだった。なぜならそれがどのような分野のものであるにせよ芸術行為とは要するに自我の放出であり、発生する自我と放出される自我のバランスを常に一定に保っておくなどという目論見は原理的に不可能だからである。実現不可能な目標に向けてなされる超人的努力のゆきつく先は精神と肉体の崩壊である。しかしゼルダにはそのような状況を冷静に把握することはできなくなっていた。(p157)
ということで、明日はフィッツジェラルド著、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』へ進む予定。