カーネル・サンダース神社設立建白書

 あまりのベタさ加減におもわず食いつく。このネタ。
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/20090311/?link_id=RSH02

 非常に興味深いニュースだ。
 というのは、このニュースに現れる人たちの発言を追っていくと、御霊信仰に典型的に見られる人間心理の布置が見え隠れするからである。さらに、深刻な罪悪感が駆動していた過去の御霊信仰とは異なり、今回のカーネル・サンダース信仰が、関西らしい「とほほ感」と「遊び心」が加わえられ、ほどよいベタの香りを漂わせながら、御霊信仰とおなじ心理的布置を取って駆動されていく有様が、いかにも現代的であり、人の心について考える仕事をしている私にとっては非常に面白い。 
 そこで、この件に関する、私の意見をはっきり述べておきたい。
 カーネル神社を建立すべきだと考える。
 その理由を以下に。
 85年の優勝のとき、阪神ファンは優勝の喜びに酔った。その勢いで神様、仏様、バース様ということで胴上げし、道頓堀川に放り込んだ。 
 きっと放り込んだ連中は酔いから醒めた後、「あー、やっちまったなあ」と後悔する気分が芽生えたはずである。そしてこのニュースを聞いた良識ある阪神ファンの多くは「あほなことしよって」と腹立たしく思ったはずだ。たとえば下の記事。

阪神タイガースの大ファンという男性会社員(52)は「人形が投げ込まれたと知ったときは同じファンとして腹立たしかった。(産経新聞3月11日配信)

 この投げ込んだファンへの腹立たしさが、同じ阪神ファンである自分に向かうと、「恥」や「自責感」へと転化して感じられることになる。つまり「同じファンとして恥ずかしい」、「申し訳ない」という気持ちとなるわけだ。そして阪神ファンとして申し訳ない、という気持ちが高まると、その気持ちを解消するべく、阪神ファン有志によるカーネル・サンダース探しが行われることになる。

ファンの有志らが数回、川さらいをするなどして探したが、川底はヘドロなどがたまって濁っていたこともあり、見つからなかった。(日本経済新聞3月11日大阪朝刊)

 しかし見つからないままだと、見つけられず申し訳ないという気持ちも重なり、さらにファンの自責感が強まっていく。
 ああ、ひどいことしたなあ、カーネル・サンダースはいくら人形だといっても、ヘドロでどろどろの川底に沈められて、苦しいだろうなあ、つらいだろうなあ。
 そんなことを考えるようになると、次第に責める主体が外在化される。それまではファンが自分たちの蛮行を責めていた。それが次第に、水底で苦しみもがいているカーネル・サンダースが、水底へ投げ込んだファンを責め始めることになる。
 これが呪いの起源となる。
 その後、何年も阪神は優勝できない。もちろんフロントも、監督も、選手も悪い面はあるかもしれない。でも、それだけでは説明できない。そんなとき、人は魔術的思考に陥る。 そして、「そうだ、カーネル・サンダースの呪いのせいで優勝できないんだ」と考えるようになる。うまく説明できない事柄に理由を与えられると、解決策が見えるので人は安心する。カーネル・サンダースの怒りを鎮めれば、阪神は優勝できるのだと。

 この心的構図は、御霊信仰のそれとパラレルである。

 ここで御霊信仰の代表である、菅原道真公の信仰について考えてみよう。
 非業の死を遂げた菅公は、彼を冷たく処遇した朝廷人たちに祟りはじめ、年若い有力者が死に追いやられるなどの異変を起こした。そこで霊を鎮めるべく朝廷は贈位し、さらに北野天満宮を建立して菅公を祀り、それが天神様として信仰の対象になったわけだ。
 なぜこうした御霊信仰が芽生えたかを、人間心理に立ち返って理解するとこうなる。まず菅公を死に追いやった人たちは後ろめたい思い、つまり罪悪感を有していた。その後、天変地異が起こる。すると罪悪感が刺激され、むくむくと大きくなる。抱えきれないくらい大きくなると、菅公に投影され、道真が怒っていると感じるようになる。
 それを解消するには、菅公の怒りを静めるために祀るしかなくなる。その際、われわれに御利益を与えていただくほど立派な存在にすれば、菅公は満足なさるし、またわれわれにも御利益が生まれる。
 一石二鳥である。まあ、非常に都合のよい処理の仕方をするわけだ。
 しかも菅原道真公が学才に秀でた人であったから、学問の神様として崇められ、お参りすると志望校に合格できるという御利益がもたらされるなんて、あまりにも調子が良すぎる気もするが、これが典型的な、日本の罪悪感の処理の仕方である。

 ちなみに私より上の年代の方はご存じだろうが、以前カンコー学生服のCMで桜田淳子ちゃんが学ランを着てコマーシャルに出ていたことがある。このカンコーが菅公である。カンコーの学生服を着ると学業向上の御利益がある、というわけだ。御霊信仰は最終的には、制服の名前にまでなって、淳子ちゃんに着てもらえるのである。きっとあの世の菅公様もご満悦だろう。そしてわれわれも、淳子ちゃんの学ラン姿というありえない姿を拝見できたわけである。本当に天神様はありがたい。

 さて、カーネル・サンダースに話を戻そう。
 カーネル・サンダースが呪いはじめた、ところまで説明していたので、その先へ進む。

 カーネル・サンダースの怒りを鎮めるためには、汚い道頓堀川の汚泥の中で苦しい日々を送っておられるはずのカーネル・サンダースをなんとしても救い出さねばならない。そこでファンも救おうとした。槍魔栗三助も救おうとした。それでも救えなかった。

 しかし今回、ヘドロの中から偶然に救い出された。この「偶然」というところが、意味深い。人智を越えたところに、突然立ち現れてくださったことになるからである。
 ファンの心の中では、やっと救い出せてうれしい、という思いと、これまで大変申し訳なかったという思いと、でもよく生きていてくださったという思いがないまぜになって、大変ありがたい思いがするはずである。

堺市北区から見物に来たという無職男性(63)は「人形が見つかったというニュースを見て、いても立ってもいられなかった。『よくがんばった』と声をかけてあげたい」。(産経新聞3月11日配信)

 しかも救い出されたカーネル・サンダースのお姿は、ヘドロの中での24年の苦行のために、ずいぶんと汚れてはいらっしゃるが、しかしそのことを気になさる様子もなく、おだやかな顔で笑っていらっしゃる。このようなひどい目にあわせたファンのことも、誰のことも恨むことはなく、ただ柔和な笑顔を浮かべて、そこに立っていらっしゃるのだ。すべての者を許すかのように。
 もう手を合わさないわけにはいかない。

 阪神タイガース応援団本部顧問で、大阪学院大企業情報学部教授の国定浩一さん(68)も駆けつけた。国定さんは人形に手を合わせて拝み、「カーネルさんは怒っていると思ったけど、仏像みたいな慈悲深い顔。今世紀最大の発見や。阪神甲子園球場に置いてほしい」と興奮気味。(毎日新聞3月11日配信)

 このありがたいカーネル・サンダースは祀らないわけにはいかない。そして、ファンが抱いていた罪悪感が解消されるくらいていねいに扱わないといけない。そうしないと、また呪いが訪れることになるからだ。
 だから、カーネル・サンダースは「展示」してはいけない。「安置」しなくてはならないのだ。祠をつくってカーネル・サンダース神社と名付け、そこにご神体を祀り、普段はおかくれいただき、ハレの日にだけご開帳して拝めるようにするべきだ、ということになる。
 24年間の苦労をおかけしたご神体には、ゆっくりおやすみいただかなければならない。参拝するファンは、おかくれになっている御簾のこちら側からだけ、お参りさせていただくだけとする。しかし、一番お力を借りたいペナントレース終盤の1週間だけはご開帳して、選手やファンに力を与えていただくようお願いをする。

 ファンの心を考えると、この対応が一番だと思う。 
 ところが阪神球団は、歴史館への展示を考えておられるようだ。

南信男・阪神球団社長は11日、「今朝(阪神甲子園)球場長に、球場内で飾ってもらえるよう(関係先に)お願いすることを指示した」ことを明らかにした。「人形は、球団にとっても歴史的な物の一つ。できれば(球場内に来春完成する)歴史館に飾りたい」と南社長。(毎日新聞 3月12日配信)

 この社長の判断には問題がある。カーネル・サンダース様のおいたわしい姿を「展示」してはいけない。ましてや「飾る」なんてもってのほかだ。そんな無粋なことをなさっては、間違いなく罰が当たる、つまり阪神低迷という事態がもたらされるはずだ。
 これ以上、阪神が日本一を逃し続ける事態を避けるためにも、カーネル神社建立という案もぜひご検討いただければと、切に願ってやまない。南社長の英断を期待したい。