W.ジェイムズ著『プラグマティズム』などを読む

 その後の読書など。 
 フィッツジェラルド著、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、一回読んで感激し、現在じっくり二回目に取り組み中。香り高い訳文がすばらしい。感想は日を改めて。
 その他、いくつかざっと。
 魚津郁夫著『プラグマティズムの思想』。2006年1月刊。ちくま学芸文庫。パース、ジェイムズ、デューイのプラグマティズム三羽烏だけでなく、ミードからローティまで幅広く紹介している。わかりやすく良心的な説明。
 そして、W.ジェイムズ(1872-1910)著『プラグマティズム』(岩波文庫)。1907年刊。この年フロイトは、『グラディーバ』論文を書いている。N型フォード発売の年(T型は翌1908年)。この年の主要な作品は、ピカソアヴィニョンの娘たち』、ベルグソンの『創造的進化』、なお日本では田山花袋『蒲団』、泉鏡花婦系図』。
 プラグマティズムの古典であり重要な本なので、いくつか引用しておく。
 いわゆるプラグマティック・マクシムの部分。

およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である。(p39)

 多元主義を肯定しつつ、絶対的統一者を否定しないロジックの部分。

いつかは唯一の認識者、唯一の起源、そして考えられるあらゆる仕方で固く結ばれた宇宙によって固められた全的統一でさえが、あらゆる仮説のうちいちばん尤もな仮説となる日が来るかもしれないことをプラグマティズムは承認するのである。それまでの間は、世界はなお不完全にしか統一されておらずかつおそらくつねにそうであろうという反対の仮説が真剣に扱われねばならない。(p121)

 プラグマティズムの真理観−いわゆる可謬主義について説明する部分はここ。

「真なるもの」とは、ごく簡単にいえば、われわれの考え方の促進剤に過ぎないので、それは「正義」がわれわれの行い方の促進剤に過ぎないのと同様である。・・・われわれは今日えられる真理によって生きねばならず、今日の真理も明日はこれを虚偽と呼ぶ心構えをしていなければならぬ。・・・(プレトミー、アリストテレス、スコラ哲学などを)今日われわれはそれらのものを単に相対的に真であるとしか呼ばない。あるいはその経験の範囲内で真であるというにすぎない。(p163)

 さらにプラグマティズムと合理論の違いについて。

その本質的な差異は、合理論にとって実在は永遠の昔から出来上がっていて完全なものであるのに、プラグマティズムにとっては実在はなお形成中のもので、その相貌の仕上げを未来に期待している、というにある。(p189)

 この違いについて説明する際、ジェイムズは印象的な比喩を用いる。

 合理論的な心の人は、・・・「であらねばならぬ」という句がいつもその唇にのぼる。・・・ところがこれに反して徹底的なプラグマティストというものは、至極のんきな無政府主義的な部類の人間である。もし彼がディオゲネスのように桶のなかに住まねばならないとしても、彼はたががゆるかろうが、桶板から日光が差し込もうが、さらに意を介しないことであろう。(p191)

 うーむ。ジェイムズ、なかなかいいんじゃないでしょうか。