フィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』を読む

 スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)著、村上春樹訳、『グレート・ギャツビー』。1925年刊。村上訳は中央公論新社から2006年に刊行された。
 すばらしい一冊だった。 
 『グレート・ギャツビー』は「喪失」の物語、だと紋切り型の紹介文でよく言われる。手垢のついた言葉ではあるけれど、確かに主題は「喪失」ではある。しかし凡百の都会小説と異なるのは、ただ「喪失」の気分を表面的になぞるだけに終わっていない点にある。フィッツジェラルドが、自らの体験の中で気づきつつあった欠落感を必死になってとらえようとし、その輪郭や肌触りをともかくも描き出そうとしているあくなき努力が、この小説を単独峰として他から屹立させ、独自の輝きを放たせることになったのだと思う。ただその輝きは、主題のはかなさ故にあえかな明滅としてだけ読み手の目に映るのだけれど。 
 「現代」という時代を、近代化が市民の末端にまで行き渡った時代、だと理解するなら、人々は共同体の絆から切り離されることによって、粘り着くような人間関係の重さから自由になり、その解放感を享受することができるようになった時代、だということになる。しかしそれは一方で、確かな地縁、血縁によってつながれた地盤から、われわれを否応なく切り離していく時代でもある。
 そして近代化とは、変化と運動の歴史でもある。都会での生活は、日々新たなものになっていく。そこで暮らす人々は、その変化への適応を急がねばならない。だから僕たちは、足もとの地面がどうなっているか確かめることもできないまま、何かに追われるかのようにひたすら走らねばならない。商業主義が瀰漫する社会では、自分というものを打ち出し、売り込んで行かなくてはいけないが、そんな我々に示されるロールモデルは、自信ありげな笑みを浮かべてビジネス誌に顔をのせる成功者の顔ばかりだ。そんな社会の行動規範の嘘っぽさに気づいていながらも、その基準の上を走らなければならない自己欺瞞にひたされているのが、我々の日常である。
 そうした日常の欺瞞性が、シンボリックに表現されているこの部分。

 朝にも
 夕にも
 僕らは楽しいことがいっぱい


 外では風音が高まり、湾の方に雷鳴の微かなとどろきがいくつも聞こえた。それに合わせてウェスト・エッグじゅうの電灯が次々に灯されていった。帰途につく通勤客を乗せたニューヨークからの電車が、雨中を勢いよく突き進んでいた。それは人たるものが底深い変化を遂げる時刻であり、高ぶりが電波となって発せられていた。



 何よりもまず確かなことがある
 金持ちはますます金持ちになり
 貧乏人はますます−子だくさんになる
 とかくするうち
 そうこうするうち
(pp176-177)

 しかしふと立ち止まって足下を見ると、それまで確かなものだと思っていた大地が、軽く蹴るだけでもろもろとくずれていく弱い地盤でしかないことに気がつく。あわてて後ろを振り返ると、そこには崩れ落ちた虚空が広がるばかりだ。つまり、現代に生きる人は誰しも、確かな大地というものを喪失しており、しかしその喪失を直面する余裕もないままに走り続けざるをえない状況に置かれている。
 
 人類という種が、愛着を希求する本能を本来的に有しているとすれば、彼を包み支えてくれる、暖かく確かな情緒的基盤を希求する傾きを誰もがもっていることになる。しかし、そばにいる人にそれを求めても、その人はいずれ彼のもとを去るだろうし、最後にはこの世から消滅する。つまり、それらはかりそめのものでしかない。
 だから人は、消え去ることのない確かなものをもとめたくなる。社会の変化が緩徐なものであった時代には、共同体がその願望の受け皿として機能することができた。あるいは共同体を支える風土や大地というものが、さらにその受け皿になることができた。
 しかし都市化が進む中で、それは必然的に失われていく。都市に生まれおちた者にとっては、それはあらかじめうしなわれたものであり、再びは取り戻せないものである。そこに現代の悲劇性、つまり存在論的な悲劇性があることになる。
 その喪失が耐えがたいほどに重いからこそ、古き良き時代へのノスタルジーに浸ったり、復古主義的なナショナリズムに陥ったり、そして何かへの依存へとおぼれていく基本的傾向を我々は有してしまう。それらは、同じ源に端を発した、現代に生きる我々の病理である。そして、いずれにも裏打ちされている喪失の苦さを消し去ってしまうために、それらの病理は甘美なロマンティシズムの香りで覆われることにもなる。たとえば酒で身を滅ぼした芸人の記憶や、リストカット摂食障害に苦しむ少女の姿が、リリカルに表現されてしまうことが多いように。

 さてフィッツジェラルドは、小説を書いて手にした富で豊かな生活を送りながら、その満足の表層性と裏側に潜む空虚感を半ば無意識的に感じていたであろうし、小説家として走りながら、彼は自分のよって立つ足場のもろさにも気がついていたはずだ。
 歴史にのこる長編小説を書こうという野心を胸にフィッツジェラルドは、そうした不安の内部へ降りていき、奇跡のようなバランスで言葉にし、傑作を生み出すことに成功した。だから彼の美しい文体の背後に横たわる哀しみは、彼自身が自分の足場の不確かさからくみ上げた喪失感と、華美な暮らしの背後で蠢く空虚感に源がある。この小説は、彼が身を削りながらその源へ降りていき、手作業でひたすらにくみ上げることによって成立したものなのだ。

 ギャツビーのそんな話に耳を傾けているあいだ、そのあまりの感傷性に辟易としながらも、僕はずっと何かを思い出しかけていた。捉えがたい韻律、失われた言葉の断片。遙か昔、僕はどこかでそれを耳にしたことがあった。ひとつの台詞が口の中でかたちをとろうとして、僕の唇は聾唖者の唇のようにしばし半開きになっていた。驚きの空気を外に吐き出すという以上の何かをそれは希求し、あえいでいた。しかし結局声にはならなかった。思い出しかけていたものは意味のつてを失い、そのままどこかに消えてしまった。永遠に。
(p204)

 Through all he said, even through his appalling sentimentality, I was reminded of something -- an elusive rhythm, a fragment of lost words, that I had heard somewhere a long time ago. For a moment a phrase tried to take shape in my mouth and my lips parted like a dumb man's, as though there was more struggling upon them than a wisp of startled air. But they made no sound and what I had almost remembered was uncommunicable forever.

 この部分が、この小説の基本的構造をもっともよく象徴している。読み手である我々は、フィッツジェラルドの文体を通して、遠い昔に聴いた声や、断片や、リズムを聞き取る。彼特有のロマンティックで哀切な音楽的文体の上で繰り広げられるのは、しかし、どうしようもなく愚かしいギャツビーやデイジーの物語だ。彼らは、そのリズムにのって、たよりない舞台の上でくるくると踊るしかない。その愚かな彼らの姿の向こうに、我々自身に内在する喪失感と悲劇性とが浮かんでは消えていくのだ。
 この小説が現代の古典として読まれ続けるのは、この構造による。
 「小説」という表現形式を信頼していたフィッツジェラルドが、その形式の強靱さを頼りにしながら内面へと降りていき、言葉をつかみあげて文章を構築することによって、彼は、読み手と彼の間につながりを生みだし、そして読み手と他の読み手との間にもつながりを生みだすことに成功した。つまり、フィッツジェラルドが身を削りながら残したこの小説を読むことを通じて、我々は深い部分でギャツビーやフィッツジェラルドと、そして他の多くの読み手ともつながることができるのだ。そのつながりはつかの間のものではあるけれど、情緒という心の中の基盤の上に成立しているがゆえに、作品を読み返すたびに、そこに確かなつながりを、我々は再び見出すことができる。
 この機能が与える読み手への励ましにこそ、小説という表現手段の可能性がある。フィッツジェラルドがその可能性を信じていたことによって、都市化した現代に生きる人たちが共有する悲劇性を、『グレート・ギャツビー』という誰もが共有しうる形で彼は示すことができた。いわばこの本は、最後は破滅してこの世を去ることになる彼の生きた証であり、だからこそ今も読み継がれ、人々の心に影響を与え続けるのだ。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)
Francis Scott Fitzgerald 村上 春樹

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