ザビーナ・シュピールラインの人生とユング(4)

 ずいぶんほったらかしにしていたテーマだが、気分が向いてきたので、また続けます。
 なおこの連載のリンクは、一回目二回目三回目
 前回はフロイトユングが断絶するところまで、紹介した。今回はその後の顛末。

 フロイトユングが決裂した後も、シュピールラインは二人の考えを統合しようと努力を続けていく。そんなシュピールラインにいらだつフロイトは、1914年6月12日に「あなたはいまだにユングを愛し、彼を正当に恨むことができず、彼を群衆に迫害される英雄と見なし」(p219)ていると批判し、統合への努力をあきらめるよう強い調子で要請する。
 しかしシュピールラインは、もはや埋めようもない溝を埋めようとする。ユングの「学問的前進に関心を抱き」(p97)続け、彼へ手紙を送ってはフロイトの考えを紹介しつつ、ユングの意見を尋ねる作業を続けていく。その努力を推進していくのはもはや恋愛感情ではなく、学究的態度が前面に押し出されて理論的な討議が続けられていく、ように表向きは見える。
 しかしその背後にある感情が動いていることが明らかになる。1918年1月6日の長い手紙で、シュピールラインは次のように告白する。

 もはや私はジークフリートの夢を見ません。たぶん、フロイト教授にジークフリートの夢の分析を見せたとき以来、見ていないと思います。いえ、ありました!私が妊娠中に子どもを失いかけたとき、彼はいま一度夢のなかに登場しました。ですからふたたび生まれた私の娘は「レナータ」(注:rebornを意味する名前)と名付けられたのです。(p129)

 この告白から、押さえられていたシュピールラインの感情が溢れ始める。

 あなたは結局「現実の」ジークフリートを殺しました(あなたもまた「現実のもの」を持っていた証拠です)。つまり彼を昇華されたもののために犠牲にしました。私は逆に、夢においてジークフリートの父たるべき男を殺し、それから現実の中で別な男性を見つけたのでした(p130)

 これに対してユングは「ジークフリートは象徴であるが、われわれがそこに自分自身の英雄的態度を認めたときに象徴であることをやめる」(p133)と返事をする。それに対してシュピールラインは1918年1月19日の手紙で、そんなことはないのだと強い調子で反論する。

 フロイトによればジークフリート幻想はたんに願望充足にすぎないでしょう。この「たんに」から私は常に自分を守ってきました。私は何か偉大なことに定められており、英雄的行為を成し遂げなければならない、そう私は自分に言ってきました。さて私のXへの愛が・・・プラトニックではないことが分析によって示されたとして、なぜそれに逆らうべきなのでしょう? この神聖な愛に自分を捧げ、英雄を産むことの中に私の英雄的行為を見ることがどうしていけないのでしょう?(p134)

と悲痛な訴えを行う。
 同年1月27-28日頃のユングへの手紙では、「私のジークフリート問題は、象徴的な意味を持つアーリア・セム的な子供(たとえばあなたの学説とフロイトの学説の結合から産まれた子供)と同様、現実の子供を産み出すこともできました」と述べる。こうしたファンタジーを将来の夢として抱いていたために、それが幼児的願望に過ぎないことを認めることが大変困難であったことと述べ、次のように書いている。

この人生課題を果たさなかったという罪悪感があまりに激しくて、ジークフリートが私の娘の命をほとんど奪いそうになったほどでした。生まれようとするレナータが私の中のこの二つの要素にこれほど執拗な闘争を引き起こすとは、ジークフリートと私のレナータの間にはどんな葛藤があったのでしょうか・・・妊娠中に私は一つの強烈なジークフリートの夢を見ました。それと同時に、あるいはその直後に、私は娘をあやうく失いかけたのです。・・・結局、現実では娘が勝利をおさめ、私は、別な夢の言うところに従って、「レナータ」と名付けたのです.

しかしそれでも尚、シュピールラインは現実の子どもとしては生まれなかったジークフリートを、「精神的な子供」として創造することの意味を重視した一文を記している。
 ユングシュピールラインの手紙のやりとりは、ここで終わる。

 (続きます)