ダニエル・デフォー著、吉田健一訳『ロビンソン漂流記』を読む。
『ガリヴァー旅行記』からのつながりで、『ロビンソン漂流記』を読んだ。1719年刊。訳本は新潮文庫の、流麗な吉田健一訳を選択。
この主人公、ロビンソン・クルーソーは、お気楽なガリヴァーとはうってかわって、まじめ一徹である。彼は無人島での単独生活で出会う多くの困難を、あくまで理性の力にたよって乗り越えようとする。また誰も見ていないのにかかわらず、たいへん勤勉である。一人なのに、日課をきめて、麦を植え、米を生やし、塀を作り、梯子をつくり、服をつくり、傘をつくり、家畜を飼う。強迫的なまでに、くそまじめ。
しかし神は残酷である。いくらまじめに暮らしていても、試練を与えるのだ。地震が襲い、大雨が降り、そして病気にかかる。これでもか、と押し寄せる困難の中で、ロビンソンは神と対話する。
何故神は私にそのようなことをされたのだろうか。私はいったい、何をしたのだろうか」(p108)。
しかしいくら困難な状況とは言え、ロビンソン、まじめすぎるぞ。ちょっとはガリヴァーの気楽さを見習わないと。
さて、ロビンソンの生活が安定して長い年月が過ぎたある日、彼は海岸で人間の足跡を発見する。そして、その人間たちがどうやら互いに殺し合ったらしい痕跡を発見して、恐怖にかられる。さらに彼らが食人の習慣があることを知っていくのだが、その中で彼が抱いた恐怖は、次第に「野蛮人」たちに対する激しい怒りへ転化していく。
私はその間じゅう、野蛮人に対する血腥い考えでいっぱいになっていて、ほかにもっとましな仕事をする代りに、彼等が今度島に来た時、殊に彼等がこの前の時と同様に、二帯に分れて来たならば、どうやって彼等を襲撃しようかということばかり思案して暮していた。・・・私は野蛮人以上の殺人鬼になることには気付かなかった。(p212)
このあたりの心理描写は面白い。この小説が単に冒険譚としての面白さだけでなく、近代小説としての魅力をそなえているのは、くそまじめなロビンソンが時に直面する、彼自身の弱さ、醜さの描写ゆえのことだろう。
ただ、気になるところに触れておくならば、ただ捕らえた日が金曜日であったという理由だけで、捕虜に「フライデー」という名前を与えたり、そのフライデーに西洋的な価値を教化し、神や悪魔や信仰の意味を教え諭していくところなど、いかにも当時の西洋中心的な思考が前面に出ている点は、鼻白む思いもする。
あと、心理療法に関連するところも拾っておこう。ロビンソンは、なんと「一人認知療法」に取り組むのだ。無人島での生活で絶望に駆られて悲観的思考に陥るが、彼はそのことに気がつき、認知療法的な自己治療に励みだす。
彼は悲観的思考を列挙して、その考えを克服しようと、逆にポジティブな発想を考え出して、自分にいいきかせようとする(p75-77)。たとえば、こんな具合。
わるい考え「私は救出される望みもなく、この絶島に漂着した」
→良い考え「しかし私は生きていて、船の他の乗組員は全部溺死した」
すばらしい、トリプルコラムまではいかないが、ダブルコラム法だ。もう一つあげてみよう。
わるい考え「私は体を覆う着物さえもない」。
さあ、ロビンソン、この悲観的思考をどう乗り越えるのか!と、わくわくしながら次の行へ目をやる。しかし読み手の興奮をよそに、彼は実にあっさりと次のように記す。
→良い考え「しかし私がいる所は熱帯で、着物などはほとんどいらない」。
そういやそうだな、熱帯なんだからな、服なんていらないよな、となぜだか納得させられる、この屈託のなさ。ロビンソンさん、参りました。
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