スウィフト著『ガリヴァー旅行記』を読む

 近代へと社会が歩みを進める中で、人がどのような体験をしていたのか知りたくて、この本を読む。
 スウィフト著、『ガリヴァー旅行記』。原書は1726年イギリスで出版。翻訳は今回、岩波の平井正穂訳を選ぶ。

 童話化された物語として知られているこの本。しかし原書はいかがわしく、くだらなく、そしてスウィフトの病的な側面があらわれた、不思議な傑作である。

 まず最初のリリパット国の訪問記は、文句なく楽しい。よく絵本で描かれるガリヴァーが地面につながれて、十分に身動きができない図。この場面がガリヴァーの一人称で語られるので、わりとリアリティをもって再体験できる。たとえばガリヴァーに向かって何百本もの槍が放たれると、「針で刺すようなそのちくちくした痛み」を身体中で感じたことが報告されるから、なんとなく読んでいても身体がそわそわしてしまう。それに、おかしいのが、排泄の話がやけに具体的なのだ。しばりつけられたガリヴァーが我慢しきれなくなって放尿するシーン。

私は早速右側に寝がえりをうって、たまっていた小便をやっとの思いですることができた。それがまた大変な量だったので、住民たちもこれにはびっくり仰天したようであった。・・・連中は左右に道を開いた。おかげで、私の体から物凄い音をたて激しい勢いで迸り出る奔流を避けることができたというわけだ。(pp19-20)

そして、大についても。

例の厄介至極な重荷を放出した。・・・この鼻持ちならぬしろものは、わざわざそのために特別に任命された二人の召使によって手押車で運ばれるようになったというわけだ。(p25)

 この後、ガリヴァーが皇帝の信任を得て解放され、さらに敵国の船隊を一網打尽にする活躍をするまでに至るわけだが、ここまでは童話でもよく知られている部分である。ところが、その後のエピソードがくだらないネタになる。皇妃の住む宮廷が火事になるのだが、その際ガリヴァーは小便をひっかけて延焼を食い止めるのだ。巨人ガリヴァーが、ちょろちょろ燃え上がる火に向かって、じょろじょろと放尿している情景を想像すると、大変ばかばかしい。しかも物語は、それがもとでガリヴァー不敬罪に問われるという、驚くべき展開を見せていく。

 ただ、第二篇の巨人の国である「ブロブディンナグ国」に入ると、全体的に似たようなアイディアの繰り返しで、ちょっと冗長になってくる。しかしスウィフトは展開が緩徐になると、いかがわしい小ネタを突然混ぜ込んで、その刺激で読者をはっとさせる。あざといぞ、スウィフト。
 たとえば、王妃の女官たちがガリヴァーをもてあそぶシーン。

私を頭の天辺から足の爪先まで素っ裸にして、自分たちの体にぴったりくっつけるようにして抱きかかえることもしばしばであった。これには全く閉口した。ちょっと言いにくいが、彼女たちの肌からぷうんと漂ってくる悪臭に我慢できなかったからである。(p158)

 第三篇のラピュタ国へ入ると、今度は科学者や知識人への揶揄の羅列となる。たとえばこの世界の現象を科学的に探求する人たちが、いずれ地球が消滅したり、星が壊滅するといった心配ばかりして、夜がおちおち眠れず、娯楽も味わえなくなっている姿を描写する。スウィフトは、科学や知識人を嗤う。

 そのあと日本を経由して、第四篇のフウイヌム国に入ると、スウィフトの筆はさらに冴えてくる。理性的な馬たちが支配する国フウイヌムでは、下等な種のヤフーという連中がいるが、これが人間なのだ。この国で過ごすうち、ガリヴァーは馬に感化されて、次第にヤフーを見下すようになっていく。そして最後には、フウイヌム国を去り故国に戻るのだが、妻や家族に再会したとき、ガリヴァーはある反応を示す・・・

 漱石は『文学評論』で、「『ガリヴァー物語』は愉快である。そうしてまた不愉快である」(p95)と評している。至言だと思う。スウィフトは、ガリヴァーが諸国遍歴する中で発見する、人間の弱い部分、みにくい部分を、ひたすら書き連ねていく。この小説を読むことは、自分の醜さに出会う読書体験でもあり、しかしそれゆえにページを繰らざるを得なくなっていく。

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