バターフィールド著『近代科学の誕生』を読む。
バターフィールド著『近代科学の誕生』。1957年刊。訳本は1978年に講談社学術文庫から、上下2冊で出版された。
この本を読んだ理由は、メスメルの動物磁気が登場した時代背景を確認したかったから。
科学革命における重要な人物とその発見について、歴史的文脈の中に位置づけながらコンパクトに紹介されている。
「磁力」については触れられていなかったので目的には直接役立たなかったが、力学や天文学の理論的変遷に時代精神が与えた影響が理解できて、大変勉強になった。
せっかくなので、必要な部分だけざっと要約しておく。いつものように超要約で、きわめて主観的な情報ですので、あてにしないでください。
コペルニクス(1473-1543)
まず、コペルニクス(1473-1543)について説明されている。彼の没年である1543年に出版された主著『天球の回転について』における思考の特徴が粗描されている。彼は、過去に行われてきた観測記録のすべてに合致するような理論体系を発見しようとした。その際、太陽を中心におくことが記録を説明しやすくなったために、その視点を採用した。ここで彼は「不動性は運動よりも高貴であるという、プラトン的またピタゴラス的思想と結びついた考えを持って」(p56)おり、そして球や円が完全な形であると信じて、すべてはその形を取ろうとすると信じていた。こうした信念が彼の理論を生み出したといえるが、同時にこのような目的論的視点がはらむ限界を有することにもなった。
ハーヴェイ(1578-1657)
血液循環説を発表したウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)。
ルネサンスから「観察」が重視されるようになり、1543年(コペルニクスの『天球の回転について』の年)にヴェサリウスの『人体の構造』が出版された。この本が近代解剖学の基礎を築いた。
このような基礎の上に、1628年、ハーヴェイの主著『心臓の運動』が出版された。この本で血液循環説がとなえられた。(この時点では毛細血管は発見されていなかったが、1661年にマルピーギによって発見された)。
この血液循環説が発表されたことで、この後に呼吸、消化機能などについても理解することが可能になった。その意味で医学の発展をもたらした重要な業績であった。
ケプラー(1571-1630)
コペルニクスの地動説発表の後、1572年に新星が出現したが、これはこの時代の人に地動説以上の衝撃を与えた。なぜなら、コペルニクスの地動説はあくまで理論の問題だったが、新星の出現は、変化も生成も腐朽もしないとう古来の宇宙観と矛盾する事態が目の前で生じることになったからである。(上p103)。
膨大な観測資料を残したティコ・ブラーエの知的遺産を前にして、ケプラーは宗教的情熱(彼はイエズス会)に駆られ、数の神秘を解き、天球の音楽を明らかにしたいという強い願望を持つようになった。それらを秩序立てようとして(p108)生み出されたのが、ケプラーの法則(1609,1618年)である。彼は、宇宙を機械論的体系として描いた最初の使徒となった。(p112)
ガリレオ(1564-1642)
彼はカトリックであった。1609年に望遠鏡を制作し、観測を始め、数多くの天体の観察記録を残した。彼は力学(落下物体)の研究を天体の運動に結びつけたが、ここに彼の独創と歴史的重要さがある。
またこの時代、実験的方法が確立した。(ピサの斜塔での実験の逸話など)。それまでは古代の文物を珍重するのが教養の証拠であったが、この時代は科学と実験がその証拠だとされていた。(アマチュアの科学マニアの登場)
おバカな水仕掛けで有名なヘルブルン宮殿が建てられたのもこの時代(1613~16年)。
ベイコン(1561-1626)
16世紀では、まだ古典的資料にもとづいた理論体系がつくられていたが、次第に科学的方法が深まり、数多くの観察記録が生まれた。
帰納法を重視したフランシス・ベイコンの業績は、実験結果を理論へとたたきあげていく際の論理的根拠となった。代表作『ノヴム・オルガヌム』は1620年の刊行。
ベイコンの影響で、「実験」という方法が時代変革につながるような強い力をもつようになっていく。
デカルト(1596-1650)
1619年11月10日が有名な「炉部屋の夜」の体験。1637年に『方法序説』刊行。
演繹的思考によって構築された彼の理論は、統合され、整序され、内的な組み合わせをそなえた普遍的科学というヴィジョンを提示した。また演繹的体系ゆえの無駄のなさがあった。このベイコンの帰納とデカルトの演繹の合流が生じたイギリスにおいて、さらに科学的思考が大きな発展を遂げていく。