パブロフの犬の恐怖

 僕は携帯電話が嫌いだ。
 だから基本的に病院から貸与される業務用の電話しか持っていない。
 なぜ携帯電話が嫌いか。これは、多分医師の皆さんなら同じだろうと推測するが、病院からの呼び出し電話の受信を繰り返しているうちに、嫌いになったのである。
 夜、いい気分で熟睡している。すると突然、電話のベルがなる。時計を見ると、午前3時。いったいなんだろうと思って受信ボタンを押すと、看護師さんが動転した様子で声を上げているのが聞こえる。「先生の受け持ち患者さんが自殺して亡くなったからすぐ来てください!」。
 このような「携帯のベルがなる→暗い話をきかされる→重い気分になる」という体験を何度も繰り返した。そのうちに、「携帯のベルがなる→重い気分になる」という条件づけがなされてしまったのだ。要するに、僕はパブロフの犬になったわけだ。ああ、呼び出し電話はつらいワン。
 そこで一時期、この条件づけに対抗しようと、呼び出し電話の着信音を、僕の好きな音楽の着メロにしたことがある。いやな電話を受けるしんどさを、その曲をきく喜びが少しでも緩和してくれることを期待したのである。当時の僕はアントニオ・カルロス・ジョビンが好きだったから、彼のメロディーを片っ端からいれて着メロにしてみた。
 この目論見は、最初はうまくいった。夜中3時に変な電子音で起こされるのよりも、「Wave」や「One note samba」の軽やかなメロディーで起こされるほうが気分が良いのは当然である。
 ところが、である。しばらくたつと、今度は普段ジョビンの曲を聴くと重い気分になりはじめてしまったのだ。つまり「ジョビン→暗い話→重い気分」(「どびん、ちゃびん、はげちゃびん」みたいだな)を繰り返しているうちに、「ジョビン→重い気分」と、またもや条件づけられてしまったのである。しかも、大好きだったジョビンでも、負の条件づけがされてしまったのだ。恐ろしや、パブロフの犬
 実際、この出来事以降、僕にはジョビンの音楽が無心に聴けなくなってしまった。どうしても、暗く重い気分になってしまうのである。もう、ジョビンを聴いていろんな夢を見たあの青春の日を、懐かしく思い出すことはできないのだ。ああ、悲しいワン。