九州へ船で向かう

 連休は旅に出ることにした。
 フェリーで九州へと向かう。早朝、修学旅行生を降ろすために、船は松山に寄港した。そのしばらく前に目覚めた僕は、船窓の桟に肘をついて、朝焼けに染まる海辺の風景を眺めた。海岸線に小さな漁村が点在し、それぞれの港から何艘もの船が、漁場へ向けて波を切りながら駆けていく。視線を向こうにやると、小高い岡がシルエットとして浮かんでいて、つらなる稜線から朝の陽光がきらめいて差し込んでくる。その上では、絹雲があかね色に光っている。
 多分、海辺の村々にすむ人たちにとっては、こんな風景はまったく日常的でありふれたものなのだろう。しかし街に住み慣れた僕にとっては、こんな海辺の風景が息をのむほどに美しく思える。こうした風景に感動する僕の心が教えてくれるのは、それなりに豊かな感受性が今でも僕の中に確かに息づいている、ということだ。
 でも逆に考えれば、普段の生活の中では僕の感受性はすっかり麻痺してしまっているということでもある。「自分の感受性くらい / 自分でまもれ / ばかものよ」。昔読んだ茨木のり子の言葉が、厳しく僕に反省を迫る。
 海辺の道を、軽トラックが行き交う。港では、忙しく立ち働く人の姿も見える。共同体の中で人々は気持ちを通わせ、慰めあい、時に衝突しあいながら、一つの秩序を守ろうとしている。そうした小さな努力の上に、海に生きる人たちの暮らしは成立している。
 一方で街に生きる僕たちは、便利なものやサービスに囲まれて生きているうちに、自分一人で生きているような錯覚に陥ってしまう。たとえば精神科医としての僕は、患者さんがうまく回復したときに、「自分の力でなおした」と思うことがある。でも、そんなはずはない。病院という組織を支える人たち、医療や福祉をささえる人たち、精神医学を支える人たち、そして社会をささえる人たち。そんな無数の人たちの努力と、様々な偶然が積み重なる上で、僕の治療行為はようやく成立しているのだ。
 そんな当たり前の日常の背後に横たわっている、当たり前でない現実に思いをいたすことの重要性を、僕は日常に戻っても忘れることなく過ごすことができるだろうか?