村上陽一郎著『歴史としての科学』を読む

 村上先生のなかなかに読み応えのある論文集。科学史を鳥瞰しつつも、たとえば第一章では「自己」についての厳密な議論を繰り広げる、その視点移動の自在さと、議論の進め方、そして開かれた思考態度が大変参考になった。
 印象に残った一節を。

 今仮に、英語のknowledgeに当たるものを「知」で、またwisdomに当たるものを「智」で、それぞれ表現するとすれば、私どもにとって、「教養」とは、必ずしも「知」である必要はない、という点がそれである。
 「学問」が「知」の側面を非常に強くもっていることは否定できない事実ではあるが、しかし、「学問」が全面的に「知」のみであるわけではない。いやむしろ「知」のなかから「智」を汲み取るものでなければ、それはすでに述べたような意味での「教養」とはなれないのではなかろうか。
 そして、最もやっかいなことは、「学問」のないところ「知」はあり得ないが、「学問」のないところでも「智」は充分にあり得る、という事実なのである。そしてまた、「知」が「智」を妨げがちになる、という事実なのである。
(村上陽一郎著「歴史としての科学」、pp185-186筑摩書房、1983)

歴史としての科学
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