英国に取り残されたビオンの苦しみ

 ビオンは8歳のとき、故郷インドを離れ、英国Bishop's Stortford Collegeのprep schoolに入学する。そのときには母親がイギリスまで連れて行き、そこにビオンを一人残してインドへ帰ってしまった。その後、ビオンは三年のあいだ、母親にあうことはなかった。
 取り残されたビオンはホームシックにかられたが、しかし泣くわけにはいかなかった。なぜなら泣いてしまうと、友人達のからかいの的になるからだ。さらに学校内のいじめや厳しい校長の存在が、彼を孤独の淵に追いやった。孤独なビオンはマスターベーションで慰めを得ようとしたが、そこから芽生える罪の意識が彼を不安にした。また友人の存在も慰めにはなったが、同性愛的な接近への恐怖を感じて、友人を避けることにもなった。(Kleinians pp113-114)

 この当時の体験を推測できる資料として、ビオン67歳(1963年)のとき、つまりElements of Psychoanalysisを書いた年に、子どもに書いた手紙の次の記述がある。

All my memories of homesickness are of it as the most ghastly feeling I ever knew - a sort of horrible sense of impending disaster without any idea what it was or even any words in which to express it. (All My Sins Remembered p173)

 彼の記憶の中では、英国に置き去りにされたことは、言葉にできないほどのひどい体験であったようだ。こうした体験は、後の彼の学問的思考にも大きな影響を与えていたはずだ。
 ビオンが学術論文で「言葉にならない恐怖nameless dread」という表現をはじめて使ったのが、この手紙の一年前、1962年(66歳)の論文"A Theory of Thinking"(Second Thoughts. p116)においてである。そこでの説明は次のようなものだ。
 赤ん坊が母親へ何からの感情を投影し、それが母親に受け入れられれば、耐えられるもとのなって赤ん坊に再取り入れされる。しかし母親が受け入れられなければ、赤ん坊が取り入れるものはnameless dreadになる。
 Grotsteinは、ビオンのnameless dreadやcatastrophic change、thalamic terrorという概念は、第一次大戦中の体験の影響を受けて生まれたものでは、という見解を表明している(The Work of Bion, p185)。しかし、このprep schoolでの体験にも影響を受けているはずだろう。
 先述の手紙に戻ると、引用文の少し後ろに次のような記述がある。

But I believe it is from one's ability to stand having such feelings and ideas that mental growth eventually comes.(All My Sins Remembered p173)

 たとえ強烈な困難であっても、それをうけとめ成長する人間の力というものを信じているビオンならではの記述だ。


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