「黒塚」と恥の感情

 もう少し見られることの恥ずかしさについて考えるために、謡曲『黒塚』を読む。新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)(1997年、小学館)から。
 物語はこうだ。阿闍梨祐慶(ワキ)が、同行の山伏(ワキツレ)と宿を借りる。その女主人(シテ)は「夜寒だから木を取りに行く」と言うが、その際、閨をのぞいてはならないと言い残す。

シテ「さらばやがて帰り候ふべし。いかに申し候。わらはが帰らんまでこの閨の内ばし御覧じ候ぶな。」
ワキ「心得申し候。見申す事はあるまじく候。御心安くおぼしめされ候へ。」
シテ「あら嬉しや候。かまへて御覧じ候ふな。・・・」(p466)

 しかし女主人が去った後、誘惑にかられてワキツレが閨を覗き見ようとする。それを祐慶はとどめるが、結局ワキツレは覗いてしまう。つまり、ここでワキツレは「見るなの禁止」を破ってしまうわけだ。彼がそこで目にしたのは、人の死体が散乱した状況だった。

死骨白骨は数知らず、人の死骸は軒と等しく積み重ね、その上鞠ほどの光り物が幾つもござある。(p469)

この情景を見た祐慶たちは、女主人が鬼であること、そしてここが安達原の黒塚にあるという鬼の住みかだったと気がつき、あわてて逃げ出す。これを知った鬼女は、怒りに満ちた姿で彼らの前に現れる。

さしも隠しし閨の内を、あさまになされ参らせし、恨み申しに来りたり。(pp470-471)

 この恨みは、「胸を焦がす炎」となって燃え上がる。それに対して祐慶たちは必死になって鬼女を祈り伏せる。この威力に負けた鬼女は弱って行き、最後は嵐の中に消えていく。
 鬼女が弱っていく様を描いた、最後の地謡

今まではさしもげに、怒りをなしつる鬼女なるが、たちまちに弱り果てて、天地に身をつづめ眼くらみて、足もとはよろよろと、漂い廻る安達が原の黒塚に隠れ住みしも、あさまになりぬあさましや、恥ずかしのわが姿やと、言ふ声はなお物すさましく、言ふ声はなおすさましき夜嵐の、音に立ち紛れ失せにけり、夜嵐の音に失せにけり・・・(pp.472-473)

 「恥ずかしのわが姿」と叫んで、嵐の中に消えていく鬼女の姿が印象的だ。
 女の表の美しさの裏には、鬼が棲んでいる。この醜い鬼の部分を見られることは、怒りを伴う恥の感情を招く。この恥の感覚は単に「恥ずかしさ」という言葉で表現できる水準のものではなく、炎を巻き起こすほどの恨みをともなう強烈な感情だ。おそらくこの強烈な恥の感覚は、ジョン・シュタイナーの提示した恥のスペクトラム−humiliation, shame, embarrassment−で言えば、humiliationに近いものと理解できる。
 ただ注意しておきたいのは、「見るなの禁止」の話は女の話ばかりだ。イザナミも、鶴女房のつうもそうだ。一方、男が恥をかかされると、復讐劇として表現されることが多い。この違いはどこから生まれるのだろうか。この主題は誰かが考えているはずなので、もう少し文献を渉猟しよう。

新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)
新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)小山 弘志

小学館 1997-04
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