情動と感情が生命体にはたす役割

 アントニオ・R・ダマシオ著『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』。原書はLooking for Spinoza- Joy, Sorrow, and the Feeling Brain。2003年刊。邦訳はダイヤモンド社から2005年刊行。田中三彦訳。
 情動と感情の生命体における位置づけとその果たしている役割について、米国の代表的な神経学者の一人であるダマシオが専門的視点から論じた本である。
 まずダマシオは、生命体における情動emotionと感情feelingの位置づけについて次のように考えている。まず生命体は、命の基本的な問題を自動的に解決する装置−ホメオスタシス機構−を備えている。ここでいう基本的問題とは、エネルギー源の発見、エネルギーの取り込みと変換、命のプロセスに見合った体内の化学的バランスの維持、損傷部の回復による有機体の構造の維持、外部病原菌や身体損傷に対する防御、などである。このホメオスタシス機構は、生物進化の過程で非常に精巧なものになり、人間にいたって、この機構は次のような層を築くことになった。
 一番下のレベルが、代謝のプロセス、基本的な反射、免疫系。中レベルが、苦と快の行動、そして動因drivesと動機motivations。そして一番上に、狭義の情動emotion-proper、その上に感情feelings。このうち情動については、彼は次の三つに分類している。まず背景的情動。次に、一次の情動primary emotion(恐れ、怒り、嫌悪、驚き、悲しみ、喜びなど)。最後に、社会的情動(共感、当惑、恥、罪悪感、プライド、嫉妬、感謝など)。
 彼は、生命体をこのように層化してとらえているが、ただ彼が抱いている生命体のイメージは「高層ビルのようなリニアな」存在ではない。「高くなればなるほど複雑な枝が幹から出ているような樹木」を、彼はイメージしている。つまり単純な太い幹(代謝や反射など)が基層部にあり、そこから複雑に枝が別れでて、最後の先端部に情動や感情が位置しているイメージだ。そして、この複雑な部分と単純な部分の関係には、次の特徴が見られるという。

 より単純な反応部分をより複雑な反応部分の構成要素として組み込んでいる、つまり単純なものを複雑なものの中に「入れ子式」に配置している。(p62)

 このような生命体において、感情の果たす役割は以下のようなものになる。
 彼は感情の基盤として、ニューラル・マップの存在を想定する。そして「命が依存している無数の身体機能を脳が調整するためには、さまざまな身体のシステムの状態が刻一刻表象されるようなマップが必要」(p229)だという。このマップを踏まえ、意識してホメオスタシス機構をコントロールできるようにするために、感情があるのだと彼はいう。

 感情はたぶん、命の管理に脳が関与することの副産物として生じたのだ。もし身体状態のニューラル・マップがなかったら、おそらく感情のようなものは生まれなかっただろう。(p230)

 さらにダマシオは、このような構造を想定した上で、人間がむかうべき一つの方向として、スピリチュアルな経験をとりあげる。(p362-364)
 彼はそのような経験には、次のような特徴がそなわっているという。まずそれは「調和の強い経験、つまり有機体が最大可能な完全性をもって機能しているという感覚」だという。つまり、霊的なものとは、「よくバランスがとれ、よく調整され、よく計画された命の背後にある有機的組織のあらわれ」(p364)だという。
このような経験は、そこに喜びを伴うという点で、人間にとって有用なものである。さらに人間は、それを自ら喚起することができる。たとえば祈祷や儀式はそのようなものだろうが、そうした宗教的なものでなくとも、科学的発展について熟慮したり、すぐれた芸術を経験するようなことでも、霊的なものを喚起する刺激となる。
 情動に関する脳科学の知見を、スピノザの著作と絡めつつ明快に描き出すダマシオの手腕はさすがだ。たいへん勉強になった。

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ
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