親鸞と罪悪感について

 今日は法事。
 我が家は浄土真宗で、僧侶に導かれるままに親族一同で正信念仏偈を誦経する。今までしっかり読んだことがなかったので、読経の合間にざっと内容に目を通したが、阿弥陀如来の位置づけや浄土の説明、中国浄土の高僧や、また源信法然に関する説明などが、無駄のない文章として格調高くまとめられており、親鸞の知識の豊かさと信仰の深さに感じ入るものがあった。
 そこで先日から気がかりにしていた、古澤が阿闍世コンプレックスを論じた背景の浄土真宗心理的意義を理解するべく、本を読んで考える。まず『浄土三部経〈』から『観無量寿経』に目を通し、増谷文雄、梅原猛著『絶望と歓喜「親鸞」』の第3部「親鸞と『教行信証』」を読んだ。そこで考えたことをまとめておく。

 まずなぜ親鸞が肉食妻帯を肯定したのか。また悪人正機説を支持したのはなぜか。その心理について考えた。
 親鸞は修行の中で、比叡山が腐敗し、表では女と交わることを禁じつつも、裏では寺内に多くの女を抱えて退廃した生活を送っていたことを知っていた。その偽善が許せなかった親鸞は、自分の中にある欲望の存在を否認するのでなく、しっかりと直視しようとした。すなわち煩悩がまず存在していることを肯定するところからはじめなくては一歩も前に進めないと感じたのだ。それが「肉食妻帯の肯定」となった。しかし親鸞が本来意図したのは、決して快楽主義的なものではない。それが次の親鸞の言葉によく現れている。

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利に大山に迷惑す」(p329)

 この言葉に表れているように親鸞は、自分の中にある煩悩を自覚することで生まれる悲しみを引き受けようとしていた。だから肉食妻帯の肯定は、人間である限り背負う煩悩を直視し、弱さを受け入れようとする主体的な試みであったということだ。「悪人である」から救われるのでなく、「悪人であることを認めること」によって阿弥陀如来によって救済されるということだ。だから阿弥陀によって救われることによって楽になるのでなく、阿弥陀によって救われることによって、自分の煩悩を見つめ続ける道を進むことになる。
 古澤の二種の罪悪感の議論で、ある種の罪悪感を「ゆるされ型罪悪感」と呼んだ。この種の罪悪感の発生は、よく誤解されているような「阿弥陀に許される→罪悪感が生まれる」というプロセスによるものではない。上の親鸞の心理を踏まえていうなら、「悪も含めた全ての要素を肯定する阿弥陀の価値に自らを委ねる(同一化する)→自分の悪を引き受けることが可能になる→罪悪感が生まれる」というプロセスによって発生する、ということだ。だからこの種の罪悪感を「ゆるされ型罪悪感」と呼ぶのは正確ではない。
 とりあえず、ここまで考えておく。こう考えておけば、「他力本願」もうまく結びつけて考えられそうだが、それは明日以降に。
 あと昨日書いた「ベタ」の治療的有用性についても考えるところがあるのだが、これも明日以降に。

 読書はJanet Sayers著『Kleinians: Psychoanalysis Inside Out』を引き続きちびちびと。