E.H.エリクソン著『ライフサイクル、その完結』を読む&さようなら、若井はやと

 「老いと死」レクチャーの準備をさらに進める。
 エリクソン著『ライフサイクル、その完結』。The Life Cycle Completed-A Review。1982年刊。村瀬孝雄、近藤邦夫の両氏による邦訳は1989年にみすず書房から刊行された。その後、妻ジョーンによって補われた3章を含んだ本の邦訳が2001年に刊行されているが、このレビューは1989年刊行の邦訳版によるものである。
 彼が長年にわたって蓄積してきたライフサイクル論に関する思考が、濃縮され抽象化されて提示された著作であり、その濃度の高さ故に読者に集中した思考を要求する、「古典」の風格を備えた一冊である。内容が濃密なだけに邦訳が困難だったと思うが、この訳業は十分な出来となっている。訳者の健闘ぶりが偲ばれる。
 さて、この本の独自な点は、彼の有名なライフサイクル論の概説にあるのではなく、この理論がどのように生み出され、どのような学問的、社会的意義があるのかという点について、彼自身の考えを詳しく述べている点にある。
 そこで、それについて述べた第1章と4章を中心に要約する。なおいつものごとく、この要約は筆者の理解に基づく「超要約」なので正確性に乏しいことをご理解いただきたい。

 まず彼が社会と人間心理に関わりについて考えるようになったのは、精神分析理論全体が、

個人性(individuality)と共同性(communality)との密接な関係に対して自我が果たす役割に組織的関心を寄せる方向に向かいながら、それを中途で放棄してしまった(p12)

と感じたことがきっかけであった、という。エリクソンはここで、フロイトの言う欲動driveについて着目する。フロイトの考えでは欲動は生物学的根拠をもつ概念として捉えられていたが、本来ドイツ語のTriebという言葉は、

人間を攪乱させる力を意味するとともに人間を気高くする力をも意味(p13)

している、ことを指摘する。だから、Triebという言葉を用いたフロイトはそこにより発展的な契機を見ていたはずだろうと推測する。フロイトの思考の内部には社会との関わり、より高級な価値を重視する要素があったはずだが、当時の精神分析サークルの中で影響力を持っていた理論では、一般に社会が「外界」と平板化、単純化されてしまい、そうした発展的要素に注意が払われていなかった、というわけだ。しかしそうした理論的考察の際とは異なり、精神分析サークルにおける臨床的討論の中では異なったエトスが存在していた、とエリクソンはいう。

(そのサークル内部では)実際に現代的な意味での隣人愛(caritas)を経験していたのだった。つまり、人間は全て原則的には同一の葛藤にさらされているという点で平等であり、それ故に精神分析の「技法」は分析家自身に対しても治療状況に不可避的に「転移」せざるをえない彼の個人的な葛藤への洞察を厳しく要求する・・・という意味での隣人愛である(p18)

こうした理論と臨床との乖離に、ロゴスとエトスの不融和を見てとったエリクソンは、その懸隔を埋めようとして社会との関わりについて研究を深めるようになっていった、という。
 ちょっと強引なまとめ方ではあるが、以上が第1章のまとめである。この後、第二章、三章では、彼が体系化を試みてきた漸成的発達図式の解説が行われる。ここは私がおもしろくおもった点を中心にまとめておく。
 彼は人生を八段階の発達段階に区切り、それぞれに特徴的に見られる二項対立を抽出し、その対立を生産的に超克する中で生まれる「基本的強さ」という「徳」を重視している。たとえば乳児期の「基本的信頼vs基本的不信」の対立という危機から生まれる強さとして「希望」を挙げ、そしてこれを達成できない場合には「引きこもり」へと陥る、とし、そうした悪い結果に陥ることなく「徳」を身につけていくことが人間の成長だと述べる。「希望」以外にエリクソンが挙げている「基本的な強さ」は、希望hope、意思will、目的purpose、的確(この訳語でよいか?)competence、忠誠fidelity、愛love、世話caring、英知wisdomである。精神分析では人間の肯定的側面に焦点があたることが相対的に少ないため、「徳」に注目した彼の理論は新鮮にうつる。
 また社会内部で行われる儀礼、儀式というものは人間を適応させ、その可能性を発現させるために必要な社会的装置だとみなし、非生産的な「儀式主義」のパターンに陥るのでなく、生産的な「統合的儀式化」に発展していくことが大切だとも論じているところが面白い。
 このように病理的な心理よりも、より発展的な側面まで含めて体系化したところに彼の理論の独自性と歴史的意義がある。
 この理論はWikipediaに要を得たまとめが載っているが、そこで描かれるように通常は発達史に沿って第1段階から8段階へと上っていく階梯として描かれる。しかし彼は、この発達段階は単に直線的、経時的に進んでいくのでなく、

 各々の部位は、その部位の発達の決定的かつ臨界的な時期が正規に到来する以前にも何らかの形で存在し、他の全ての部位と組織的な関係を保持している。つまり全体の統一と調和は、各部位が適切な継列で適切な発達を遂げることによって保たれるのである。(p32)

 と説明する。
 さらに重要なのはこの本におけるエリクソンの説明の順序であって、彼はまず最終段階を説明して次第に前に戻っていくのだ。これは彼の次作『老年期―生き生きしたかかわりあい』でも同じ構造をとっており、この順序に意味があると考えておくべきだろう。まず第一の意味は、人間は階梯的に成長していくのでなく、あくまで行きつ戻りつする「漸成的」に成長していくのだと見ていること、そして第二の意味は「老い」が最終的な徳である「英知」をもたらすとともに、死が近づくにつれて最初の徳である「希望」が重要になることも示唆している、とみるべきだろう。
 そしてこうした理論的研究の先に彼が構想している地平が、第4章で明らかにされる。
 まず彼は分析家と患者の関係を転移を軸にして次のように描写する。

分析家は、患者が言語化するものを、分析家自身の生活の全般的方向についてそれまで知り得たことを光源にして眺めながら、同時に、患者の現代の状態や過去の葛藤が分析家自身の生活状況にどのようにはね返り、過去の段階に由来する感情やイメージをどのように呼び起こしているかにいつも気づいておれるような状態に自分を置いている。

 しかし分析家は、各時代の臨床的エトスから自由なわけではないことを指摘し、共有されたエトスを相対化することが分析家に求められることを説明する。

(心の中の動きも社会的な動きも含めた)これら全ての動きを支配する相対性に、潜在的(かつ控え目)に気が付いていることができるようになって初めて、分析家は癒す力と蒙を啓く力に満ちた洞察に達することができ、それが治療的な時機に適った解釈を可能にする。(p141)

 さらに、こうした価値は分析家だけが占有するべきものではなく、こうした価値が「同胞的な愛」という背景の中に置かれることによって、広く社会に共有されることが可能になるはずであり、結果として社会全体が成熟して可能性がそこに生まれると主張する。

 このような種々の相対性の観察から明るみに出される人間の動機づけの不変的法則を、癒す者と癒される者とが、原則的に共有すること・・・を前提とする、現代的な同胞愛に基づいていなければならない。同時にそれは、(歴史学社会学政治学等の関連領域における広義の治療的手続きとして高度に専門化される形をとろうと、あるいは単に日常生活の洞察の中に徐々に染み込んでいく形であろうと、ともかく)新しい生活史的な洞察awarenessや歴史的な洞察の一部分として現代人のエトスの中に統合されていかねばならないのである。(p141)

 こうした広い視野をもったエリクソンの発言と姿勢は感動的ですらある。患者との治療の中で視野狭窄に陥ったとき、こういう広がりの中に自分の仕事を位置づけていくことができれば、ずいぶん治療も風通しが良くなるような気がする。


 ところで全く話題は変わるが、若井はやとさん死去とのこと。

若井はやとさん(わかい・はやと=漫談家、本名中川秀明〈なかがわ・ひであき〉)が8日、心不全で死去、64歳。通夜は9日午後7時、葬儀は10日午前11時から大阪市城東区中央1の12の6のフローラルホール城東で。喪主は長男中川秀人(ひでと)さん。
 「しっつれいしました」などのギャグで人気を得た漫才コンビ若井ぼん・はやと」で1968年に上方漫才大賞新人賞、77年に同大賞奨励賞を受賞した。85年のコンビ解散後は、漫談家として活動していた。
http://www.asahi.com/obituaries/update/1208/OSK200812080100.html

高校時代まで私が街でみかけたことのある有名人は「若井ぼん・はやと」と「野呂圭介」だけだったから、個人的にはとても思い入れのある漫才師であった。実際、あのころの「ほん・はやと」の話芸は輝いていた。しかしあの芸も「『しっつれいしました』などのギャグで人気を得た」という言葉で片付けられてしまうのか。寂しい。